翻訳と国語教育

国語教育の場で「翻訳」が語られるとき、
多くはヘッセを載せようか、魯迅を載せようか、村上春樹訳だから安心だ、柴田元幸訳もいいぞ、
というように、個別の素材と訳者のみが話題になる。
いや、訳者が話題になればいいほうで、
国語教育に携わっている人たちの中には、
「翻訳者が違うと、文章の質がかわる」という当たり前のことを、
ほとんどわかっていない人もいるくらいだ。


「英語青年」10月号の特集は、「精読と英文学研究」。

英語青年 2006年 10月号 [雑誌]

英語青年 2006年 10月号 [雑誌]

冒頭に翻訳家の真野泰さんが「翻訳と精読」という文章を書いている。
英文和訳と翻訳を「ここでは便宜上」、次のように定義する。

  原文をよく知る特定の教師(ないし試験の採点者)が読むことになる訳文をつくる作業を英文和訳とよび、
  原文をまったく知らないことのほうがむしろ普通である不特定多数の読者が読むことになる訳文をつくる作業を
  翻訳とよぶことにする。

このように定義したうえで、「英文和訳」の答案として、
機械翻訳ばりの意味不明な日本語を書いてきた学生の例を示している。

  脳みそを使って英語を読まずにただ日本語に置き換える――
  それがかなりの学生にとっての英文和訳の実態となっているように思うし、
  そんな傾向を助長する要因が日本の英語教育にはあるように感じている。

と真野さんは書いているが、これは、じつは英語教育というよりむしろ、
国語教育の問題なのではないだろうか。
先ほどの定義に戻れば、多くの国語の授業や試験では、
「原文をよく知る特定の教師」が「正しい」読み取りを教え、
「原文をよく知る特定の採点者」に対して答案が出される。
「脳みそを使って」原文を読まないし、テストでは多少意味不明な日本語を書いていても、
教師の考える「ねらい」を満たしていれば、ある程度の「部分点」がもらえたりする。


真野さんが書いているように、「英文和訳」は「精読」ではない。
上のような国語の授業・試験は、「精読」ではない。「詳細な読みの授業」でも何でもないのだ。
今はやりの「PISA型リテラシー」の議論も、本来は脳みそを使わない「英文和訳型」の国語授業に対する
問題意識から発しているはずなのに、非連続型テキストの使用や批判的に読むことなど、目新しいところに気をとられて、
原文を「精読」することの大切さが、どうもおきざりにされているような気がする。


真野さんの実績には到底及ばないが、少しばかり「翻訳」という仕事に従事した経験のある者として、
「翻訳」は徹底的な「精読」を要求される作業だ、という実感ははっきりとある。
挙げられている例はいちいちうなずけたし、訳者として原文に向かうときの基本的な態度を教えられたように思う。
その次の村上陽介さんの文章も読みやすいので、翻訳家志望者や新人翻訳家には一読をおすすめ。


国語教育の話に戻ると、
いまの国語教育でももちろん、「精読」と「多読」をバランスよくとりいれよう、という意見はあるし、
「達意の日本語を書きましょう」ということも重要視されている。
ただ、いわゆる文学作品を「精読」「多読」したり、
型にはまらないオリジナルな文章を書く、ということは、
これからますます先細りになるのだろうなあという気がする。
わたしの信じる「文学の力」みたいなものは、
「教育」とはなじまないのだなあ、と、日々実感しつつ、何とかならないかと苦闘している。


ひとつ補足。
「教育」のことを一般化して話すというのはほんとうに難しくて、
もちろん、今この瞬間にも、「脳みそを使って考える」英語や国語の授業を実践している教師や、
「文学の力」を信じている教育関係者は、大勢いるに違いない。
その人たちの存在を否定しているつもりは毛頭なく、むしろそういう人たちにむけた「ラブコール」のつもりで書いている。


久しぶりにのんびりした休日。
読書日和。