1人称の表記

翻訳の仕事をしていた頃、月に2〜3本、多いときは5本以上、「リーディング」という仕事を引き受けていた。
翻訳出版される前の原書やときにはプルーフと呼ばれるタイプ原稿を読み、
A4用紙で10枚程度のあらすじと評価をまとめる仕事だ。
小説の翻訳はもちろん、小説のリーディングをまとめるときにも、
いつも最初に考えるのは、英語の1人称"I"を、なんと訳すか、ということだった。


言うまでもなく日本語の1人称はほんとうに豊富で、ごく一般的なものだけでも、
私、わたし、わたくし、僕、ぼく、俺、おれ、などがあり、
さらに、ちょっと変わったところで、それぞれのカタカナバージョン(ワタシ、ワタクシ、ボク、オレ)や、
わし、ワシ、吾輩、あたい、さらに、「あゆみはね……」という具合に自分の名前をそのまま使うケースなど、
ほんとうにいろいろなバリエーションの中から、選ぶことができる。というか、選ばなくてはならない。
「選ばなくてはならない」と書いた理由は、この1人称の選び方で、話し手のキャラクターのかなりの部分が決まってしまうからだ。
だから、当然ながら、長編小説の冒頭からいきなり読みながら翻訳をしていくという翻訳者はあまりいないはずで、
まずは最後まで一読し、その後、この登場人物は男か女か、といった基本的なことに加え、
どんな話し方をするのか、どんな性格なのか、想像しながら、
「普通に”わたし”でいくかな〜、いや、ちょっと畏まったイメージを出したいから漢字の”私”でいくか。
いやいや、ちょっと変わったところで”わたくし”もおもしろいかも。」などと試行錯誤する。
で、この登場人物が恋人に話しかけるときにも、「お前」と呼ばせるか、「おまえ」がいいか、
「あなた」「貴方」「あんた」「アンタ」等々、いろいろな候補の中から、
いちばんイメージに合った話し方を選ぶ。


……等々、こんなことは私のような三流翻訳家でも、ふつうにやっていることで、
あれやこれやと考えて選んでいる一人称の「わたし」、二人称の「おまえ」を、
はい!統一です!と言って、「私」「お前」に直されたら、
やっぱりがっかりするだろうなあ、と思うのだ。
わざわざ文句はつけないかもしれないけど、がっかりするだろう。
少なくとも初出時の雑誌や単行本の編集者は、絶対にそんなことはしないから、
教科書の編集者って、ずいぶん乱暴なんだな……って思うに違いない。
その改変の度合いがあまりひどくて、無意味なものに思えたら、
もしかしたら、本が売れるチャンスかもしれなくても、
「じゃあ、いいです……」とことわってしまうかもしれない。


かつて国語の教科書業界の王者だった某社では、
いまは知らないが以前は、教科書に収録する文章をすべて、常用漢字を適用し自社の統一基準にあわせて改変し、
その状態で著者に許諾申請をして、いやだと言われたら言われた箇所のみ原典に戻す、
という方法をとっていたそうだ。
今はコンピュータの検索システムがあるから、たとえば一冊の本の全テキストを検索にかけて、表記の不統一を見つけ出す、
なんてことは、だれにでも、瞬時にできる。
三流翻訳家が頭をしぼって選択した「わたし」も「おまえ」も、
「やわらかな」も「しずかだ」も「だいじょうぶ」も、ぜーんぶ、不統一! としてピックアップされてしまう。


わたしは原文のテキスト入力と原典照合の仕事がとても好きで、
かなり忙しくても、万難を排して自分でやる。(ダブルチェックで校正者などに見てもらうことはあるが。)
テキストを入力しながら、原典照合をしながら、
心の中で著者や主人公と話をしている。
入力も照合も、結果的に「精読」することになるので、
多くの場合、読点の打ち方や改行のしかた、表記の工夫、独特の言葉遣いなど、
細かい部分で「うまい!」「さすが!」と圧倒されることになる。
作家、翻訳家などプロの書き手の文章を読んでいて、表記をいじろうなんて気持ちには、めったにならない。
ごくたまに、一ページの中に「当たり前」と「あたりまえ」が混在していたりすると、
「あ、統一したほうがいいかな?」と思うくらいだ。


これからしばらくの間、わたしの頭の中は「表記問題」でいっぱいになりそうな気配。(普通バージョン)
→これから暫くの間、私の頭の中は「表記問題」で一杯になりそうな気配。(かためバージョン)
→これからしばらくのあいだ、わたしの頭のなかは「表記モンダイ」でいっぱいになりそうな気配。(やわらかめバージョン)

ふう。おやすみなさい。