会社名のこと

昨年の6月1日に、同居人と共同出資して北烏山編集室という株式会社を設立した。社名を軽く考えていたわけではないけれど、あまり凝った洒落た名前にするのは柄に合わない気がして、シンプルに事務所(=自宅)の所在地に「編集室」をくっつけた。すっかり休眠状態だけれどそれなりに愛着のある当ブログと、ツイッターの個人アカウント名に揃えてもいいかな、という気持ちもあった。「なんとか編集室」というのは、この業界での大先達である「藤原編集室」にあやかりたいというのもあった。二人でちょっと話して、うん、それでいいんじゃない、という感じですんなりと決まった。

 

会社としてスタートしてみてわかったのは、北烏山編集室、というのが意外に長くて言いにくい、ということ。仕事の電話や名刺交換の場で、北烏山編集室の〇〇です、というのが気恥ずかしさもあってスムーズに出てこない。でも、コピー機の業者さんやアスクルさんや宅急便やさんなどに繰り返し社名を名乗っているうちにだいぶ慣れてきて、最近では「北烏山編集室と申します」と社名のみで名乗ることすらできるようになってきた。出版社の編集者さんへの電話口でもすらすら言えるようになるまでもう一息、という感じだ。

 

ところが、ところが。今年に入って、いよいよ自社出版に挑戦することにした、という話を前職の元同僚にしたところ、「会社名どうするんですか、まさかこのままじゃないですよね」と言われたのだ。そして、「え、このままだよ、どうして? 変かな?」と聞いたら、「変ですよ、絶対。北烏山編集室、って出版社の名前、ないですよー」と、きっぱりとしたお返事。こういうことには全く自信のない私は、えーでももうISBN出版者コードもとっちゃったし、今更変えられないよーどうしようーと、ちょっと泣きそうになってしょんぼりと帰宅。同居人におそるおそる報告した。

 

同居人は、全然気にすることはない、という。彼は蘊蓄野郎なので、いろいろと変わった出版社の名前をあげて、それがどんな会社かとか、どんな本を出していたとか、教えてくれた。出版社だからってなんとか出版とかなんとか書房とかなんとか社とかなんとか堂とかしなくちゃいけないという決まりはないよね、というのが私たちの統一見解だった。

 

ところが、ところが。今年は久しぶりにお花見をして、出版関係者を含む数人が集まっていた席で、恐る恐るこの社名の話題を出してみた。すると複数の人が、「たしかに、ちょっと変」とおっしゃる。「でも、それがいいんじゃない、ちょっとひっかかる、というところが」「私は好きです、この社名」と補足はしてくれたのだけれど。それで、勇気を出してどこが変なのか、聞いてみた。そうしたら、まず、「烏」が、次に「北」が目に入って、なんだかちょっと、ね、というお返事。そうか、ひっかかっていたのは「編集室」のほうじゃなくて、「北烏山」のほうだったのか、と納得(だけど地名だからどうしようもないよね)。さらに、言葉のリズムやひびきに一家言ある大学教授からは、語呂が悪い、言いにくい、いっそ「北烏山商事」にしたら、などという珍提案も出て、とにかく散々けなされたのだけれど、最後に「でも、ひっかかりがあるほうが、意外に印象に残るということもある」と妙に説得力のある口調で話してくれた編集者のおかげで、「よい社名」である、ということで一件落着。

 

北烏山編集室刊の最初の一冊は、年内刊行を目指して少しずつだけど企画進行中。がんばるぞー。

10年のあいだに

ふと思い出して、2013年の3月のブログを読んだ。「この3月で、苦楽をともにしてきた非常勤の仲間が一斉に職場を去った」とある。そうか、あの年か。あれからもう10年経ったのか。いや、まだ10年?

 

あの時、会社の人事施策で、長期契約の非正規雇用者が能力や功績のいかんにかかわらず、契約を切られた。非正規雇用の人たちのがんばりで支えられているような職場だったから、わたしは猛烈に反発した。とくに、ひとりは編集プロダクション時代からの友人で、私の見る限り誰よりも能力が高く、すぐれた編集者だったし、その年は編集部が修羅場と化す仕事量が予想されていたので、どうしても非正規の方々の力を借りる必要がある。事情をきちんと説明すれば、会社はわかってくれるだろう、と思っていた。ところがこのときは、なぜだか知らないが、会社は頑なだった。折悪く彼女を高く評価していた直属の上司は長期の病気療養中で、加勢してくれる人はだれもいない。当時の部長と会議室で話しながら、私は悔しくて泣いた。もうこれ以上がんばれない。とにかく今年1年はがんばるけれども、そのあとは勤め続けられるかわからない。たぶん19年の会社員生活で、もっとも会社に絶望した日だったと思う。

 

それから10年。あのとき雇い止めにあった彼女は、フリーランス編集者として素晴らしい活躍をしている。あのときの部長はどんどんえらくなって、今や社長だ。翌年、わたしはかねてからの希望の部署に異動になって、それから8年後に会社の早期退職制度に応募して退職して、フリーになり、会社をつくった。先日、「出版事業をはじめようと思っています」と社長に伝えたら、とても喜んでくれて、がんばりなさい、と励ましてくれた。

 

10年のあいだに、ほんとうにいろんなことがあった。四半世紀ぶりにイギリスへの一人旅を決行したのが2015年。はじめてロンドン・ブックフェアを訪れ、ほとんど何もできずにすごすごと帰ってきた。あのときのみじめな気持ちといったら! それからコロナ禍で急遽とりやめた2020年までの5年間、毎年、ブックフェアの時期にロンドンを訪れた。翻訳書の仕事が増えていたこともあり、少しずつブックフェアで商談などもできるようになり、このイギリス旅行は毎年自費で行っていたのでブックフェアの前後にはあちこち観光したり、芝居を見に行ったり。今年はトーキーを訪問しようと宿を予約し、ロンドンでは久しぶりにシェイクスピア劇を観ようとグローブ座のチケットをとり、ブックフェアのチケットも予約して、定例のイギリス旅行を楽しみにしていた2020年、コロナ禍。イギリスはのんびりしていたけれども、日本は保育園が休園になってママさんたちが出社できなくなるというときに、自分だけ旅行を楽しむわけにもいかない、と泣く泣くキャンセル。幸い、グローブ座以外はすべて、無料かわずかな手数料でキャンセルができた。グローブ座のチケットは、ロンドン在住の友人がもらってくれた。その年の秋、一般書編集室がなくなり、異動。翌年、退職。その間ずっと、海外はおろか国内旅行もままならない、ステイホームの日々が続いた。

 

そしてようやく今年、取引先の出版社の方々から、「ブックフェアへ出張」という声が聞こえるようになった。今はちょうど、ボローニャのブックフェアが開催されていて、私がものすごくお世話になったエージェントさんや、今いっしょにお仕事をしている編集者の方が出張に行っているらしい。ボローニャは児童書のフェアだから、今後、ロンドン、フランクフルトと、ますます出張するエージェントさん、編集者さんは増えることだろう。わたしもなんとかして行きたい。今年は無理でも、来年は、必ず。今思うと、会社員生活の最後の数年があんなに楽しくがんばれたのは、年に一度(時には二度)、ロンドンやフランクフルトを訪れていたからだと思う。今思うと会社の正式な出張ではないし、なんの権限もない一編集者がのこのこミーティングに出ていたわけで、ずいぶん図太いというか、図々しい行動だ(社名を名乗ってミーティングに参加することについて会社の許可は得ていた)。そんな突拍子もないことをやってしまうくらい、私にとって、年に一度のロンドン行きが重要だった、とも言える。面倒くさいとか、カッコ悪いとか、体裁を気にすることもなかった。

 

これからの10年は、どんなふうになるのだろう。編集請負の仕事はとても順調で、このままでなんの問題もない。なぜ出版事業を始めようとしているのか、という問いに、明確には答えられない。なんか、おもしろそうだから。というくらいのものだ。どんな本を出していくか、という問いにも、正直にいえば、自分がおもしろいと思う本、というくらいの答えしかない。常識や体裁を気にせずにブックフェアに突進したときのように、おもしろそうだなと思うことに、ふらふらーと近寄っているだけなのかもしれない。まあ、考えてみればこれまでも、そんなふうに生きてきたような気もするな。

 

 

ふたり出版社をつくる

ほぼ1年がかりでやっていた前職の請負仕事が終わり、しばらくぼんやりしていた。退職してからずっと途切れることなく、前職のふたつの編集部から仕事を請け負っていた。どちらも苦楽をともにした仲間からの依頼だし、企画段階で多少なりともかかわった仕事だったので、在職時同様、もしかしたら在職時以上にがんばって作業をしてきた。いろいろ大変なこともあったけれど、すべて終わった今、大きな充実感と安堵感、少しだけ寂しいような気持ちに包まれている。

ありがたいことに退職後すぐ、前職以外の複数の版元さんからも声をかけていただき、いくつか編集の仕事のお手伝いをしてきた。そのうちのいくつかは本になって世の中に出ていき、今も進行中の本も何冊もある。どれも独立したからこそ受けられるような、自分の興味関心ど真ん中の仕事ばかりで、退屈だな、とか、面倒だな、とか感じたことがほとんどない。嫌な思いをしたことも、ほとんどない。(全くない、というわけではないけれど)

昨年の1月に個人事業主の届けを出して本格的に編集の請負仕事をはじめ、昨年の6月に同居人とふたりで編集プロダクションを設立した。個人事業主2名で活動するより、編集者2名で運営する株式会社にしたほうが、なにかと都合がいいかな、という気持ちが半分、あと半分は、ゆくゆくは出版社としての活動もしてみたい、という思惑があったからだ。

編集の請負仕事はそれぞれの前職の会社のほか、複数の版元さんとそれぞれ個別に仕事をしているので、時々相談したり、ピンチの時は単純作業を手伝ったりはしているけれど、個人事業主が2名所属している、という感じで、実は在職時と仕事の内容や毎日の生活はたいして変化がないような気もする。原稿を読んだり、指定をしたり、著者校正をしたり、ゲラに赤字を入れたり、索引をつくったり……。本(企画)ごとに本の内容はもちろん作業内容もいっしょに仕事をする相手も毎回違っているから、退屈することはないし、基本、自分で積極的に受けた仕事なので、これが楽しくないはずはない。複数の企画が重なってくるとややパニックになるけれど、それでも長年の編集の修羅場をくぐりぬけてきたノウハウがあるので、二人ともうわああああ、とか言いながら、たいていのことは乗り切っていける。(今日は同居人が、うわあああ、とか言いながら仕事場に自転車で向かっていった)

というわけで二人とも複数の請負仕事が現在進行形で、そこそこ忙しい。にもかかわらず、わたしたちはやっぱり、出版社としての活動に挑戦してみたい、と思っている。正直なことを言えば、なぜ出版活動をやってみたいのか、わたしは自分の気持ちがよくわからない。ひとり出版社の人たちの書いた本やウェブ記事などを読んでいると、ほとんどの人が高邁な理想や志があって、若く情熱とセンスにあふれているように思える。世の中にはおもしろそうな本があふれかえっていて、昨今は新しい出版社もどんどんできていて、ここへ自分たちが付け加えられることなんて、何もないんじゃないか、と思う日もある。いやいや、自分は編集者としてたいしたものにはなれなかったけれど、同居人のもっている知見やノウハウはやっぱり貴重なんじゃないか、それを埋もれさせるのはもったいないんじゃないか、と、他力本願ぎみになる日もある。

いろいろ考えていると、どうもわたしは出版活動をやることで、いろんな人とつながりをもって、いっしょにわいわいやりたいだけなんじゃないか、という気がしてきた。もちろん請負仕事でも、版元の担当者さんや著訳者、場合によってはデザイナーさんや校正者さんなどとも、「いっしょにお仕事をしている感」はある。でもやっぱり、企画から編集、宣伝、販売まで、全部自分たちでやる、となると、人とかかわる機会も密度もぐんと増える。それだけ気苦労も増えるだろうけれど、それを補ってあまりある楽しさ、おもしろさがある、と思っていて、そういう「人」に対する好奇心のようなものは、どうやら歳をとっても衰えることがないみたいだ。

このように考えているのはもちろんわたしひとりで、同居人がどんな気持ちでいるのかは正確にはわからない。言葉にしていることがすべてというわけではないと思うから、本当のところはわからない。でもまあ、出版社をやってみよう、というところでは一致していたので、ものすごーく大変だったり、身の程知らずにお金がかかったり、ということがなければ、やってみようかねえ、という感じ。

というわけで、いよいよISBN出版者コード取得の手続きに入ってみようと思っている。どんな本を出していくのか、という一番大事なことは、毎日少しずつふたりで話していて、それはそれでとても楽しい。HPも作りたい、インデザインも使えるようになりたい、と、夢は広がるけれど、実力と資力をかんがみて、自分たちにできることを地道に無理なくやっていこう。

なお、今のわたしのバイブルは、宮後優子『ひとり出版入門』。この本のいいところは、いろいろあるんだけど、何よりまず、懐が深いこと。出版業のよいところは、同業他社が必ずしもライバルにはならないところなので、そんなこともあるのかもしれないけれど、宮後さんのこの本を読んでいると、ライバルを出し抜こうというような姿勢は皆無で、みんなで出版界もりあげていきましょう!というオーラが出ていて好感がもてる。それから「はじめに」にあるように、「『この本を読んだら明日から出版社が始められる!』と、みなさんの背中を無責任に押すのではなく、むしろ『始める前によく考えて!』という願いをこめました。」という姿勢で書かれていること。そして何より、これだけ具体的に記述されているにもかかわらず、別にこれが絶対無二のやり方ってわけじゃないですよ、というオーラを随所で発しているところは素晴らしい。巻末に複数のひとり出版社の方々へのアンケートも掲載されていて、今わたしが知りたいこと、動き出すために必要な情報や考え方、心のもちようが、かなり網羅されている。なので今はこの本にどーんと乗っかり、ふたり出版社のはじめの一歩を歩き出そうと思う(ISBN出版者コード取得の方法も、当然丁寧に解説されている)。

 

 

 

 

 

2022年読了本ベスト5

ものすごく久しぶりに、読了本ベスト5をアップしようと思う。今年はいつもよりたくさん本を読んだ、というわけでもないのだけれど、読んだ本は大部分が「当たり」だったという幸運な年。そんな中でも何冊か、「マイ・オールタイム・ベスト」になりそうな本と出会えた。そんな中から厳選した5冊。順不同。

 

1 川本直『ジュリアン・バトラー真実の生涯』

『ジュリアン・バトラー』は青春小説であり恋愛小説であり中高年小説の傑作だと思いました。私自身が中高年ですので、二人が少しずつ老いていく描写が切なく、いちばん感動して読みました。小説(フィクション)を読む醍醐味を味わわせてくれた、自分にとって大切な本です。(読了時のツイッターより)

 

2 奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』

奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』というエッセイ集。文章が美しくて、人物が生き生きと描かれていて、自分もその場にいたんじゃないかと思うようなリアリティがある。わたしはエレーナ先生が大好きになり、わたしももう一度語学を真剣に勉強してみたい、という気になり、そして自分が年をとりすぎていることを思い出して少しだけがっかりする。(読み始めたときのブログ投稿より)

 

3 ウィリアムズ『小さなことばたちの辞書』(最所篤子訳)

読了。深夜、ラスト数十ページは寝ている同居人を起こさないように必死で嗚咽をこらえながら読んだ。この小説は私に読まれるためにやってきた、と久しぶりに、本当に久しぶりに思った。関係者全員にお礼を言ってまわりたいくらいだ。とりあえず、勝手に「同志」だと思っている訳者に、賞賛と拍手を。(読了時のツイッターより)

 

4 日暮雅通シャーロック・ホームズ・バイブル』

最後まで読んでみてわかるのは、著者が膨大な知識をただ垂れ流しすにではなく、かなり意識的に整理・構成して、周到に章立てを決め、「バイブル」=基本図書を書こうとしたのだろうということ。そういう意味ではかなり計算された「バイブル」であるのは間違いない。だけれども、その計算の背後にあるのが、ホームズ物語とシャーロッキアンの世界への深ーく広ーい愛!だからこそ、ごくたまに、計算から外れて、著者自身の意見(時に批判)が表明されている箇所があると、「おお、ちょっとムキになってる!」という感じがして、なんだかほっこりするのだ。(読了時のツイッターより)

 

5 山本文緒無人島のふたり』

先日、山本文緒無人島のふたり』を読了。同じ病気で同じような経緯で世を去った妹のことを否が応でも思い出してしまう。妹も病気が見つかったときはすでにステージ4だった。(中略)大きなことも、小さなことも、あとで読み返したり、思い出したりできるように。山本さんが『無人島のふたり』(ああ、なんていいタイトルなんだろう)を書き残したように。(読了時のブログより)

 

以上5冊!

読書体験としては、なんと恵まれた、幸福な一年だったことか。こうやって自分の過去のツイッターやブログ記事をうつしていると、大きな感動や興奮を伝えるのに自分の言葉があまりに拙く、情けなくなってくる。まあそれでも、自分の言葉で感想を記しておくことが大事かな、と思っているので、とりあえずこれからもブログやツイッターを書いていこう。細々とでも。

 

というわけで、かなーりさぼり気味のブログ「北烏山だより」ですが、来年こそはもう少し更新を! 読んでくださった方、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

 

 

 

『無人島のふたり』読了 妹のこととYちゃんのこと

先日、山本文緒無人島のふたり』を読了。同じ病気で同じような経緯で世を去った妹のことを否が応でも思い出してしまう。妹も病気が見つかったときはすでにステージ4だった。山本さんと同様、それまで体に悪いようなことは何もしていないし、定期健康診断も受けて、二人目の子供を妊娠中の幸せ真っ只中のことだった。

 

山本さんは「突然死ぬのは私じゃない。私は、友人知人、夫や家族、全部看取って死ぬのかと思っていた」と書いている。これはほんとうにそうで、健康そのものでふっくら体型の妹は、直前にパラグライダーから墜落するという事故に遭ったにもかかわらず大事に至らなかったので、なんなら自分は不死身だ、くらいに思っていたんじゃないか。私もいま、漠然と将来のことを考えて、自分が同居人より先に逝く、というのはあまり想定していないように思う。もしそうなったら、この人をひとり残すことになったら、大変だなあ、かわいそうだなあ、と思う。山本さんは体調のよいある日、夫とお気に入りのカフェに行き、「葬儀のことはどんなふうに考えているの?」とたずねる。「案の定涙ぐむ夫。」とある。それから、夫が自分で作ったグラタンをひっくり返してしまって呆然とし、泣き出してしまったというエピソード。いま思い出しても切なくて、悲しくて、涙が出てしまう。

 

妹は少なくとも私の前では模範的な患者だった。ステージ4と告げられても「私は死ぬ気がしないの」と言って、つらい抗がん剤治療に挑んでいた。休職の手続きをし、きっちりと後輩の男性に引き継ぎをして、「絶対戻ってくるから」と笑顔で言ったら、後輩のほうが滂沱の涙だったという。入院中は「会いたい人はみんな呼ぶんだ」と言って連絡をしまくったから、見舞客がたえず、いつも賑やかだった。旦那さんの希望もあって、最期は自宅でなくなったのだけれど、かなり具合が悪くなってからも、あまり愚痴も言わず、取り乱すこともなかった。私との最後の会話は、亡くなる数日前に、見舞いから帰る私の背中に「おねえちゃん、ありがとうね」と言った。それはたぶん、今日きてくれてありがとう、というだけではなくて、今までのいろんなことに言っているような気がして、私は妹のマンションの廊下に出てから号泣した。翌日だったか、その次に見舞いに行ったときはもう意識がなくて、言葉をかわすことはできず、そのまま旦那さんと私と旦那さんのお母さんの見守る中で息をひきとった。

 

そんな模範患者だった妹が、一度だけ、過剰に見えるほど激昂して、病院にクレームをつけたことがある。入院して1ヶ月か2ヶ月くらい経ったころだっただろうか。担当の看護師さんの一言がどうしてもゆるせない、その人の顔も見たくないから、担当を変えてほしい、という。その一言というのが、「Eさん(妹の苗字)は、家庭裁判所調査官だったんですってね」だ。

 

若い看護師さんからすると、何がいけなかったのか、すぐにはわからなかったかもしれない。妹は、「だった」という過去形に反応したのだった。妹は仕事を辞めたわけではなく、「休職中」なのだ、それなのに、「だった」とは何事だ、まるでもう、自分には復職の見込みがないという前提だと言わんばかりじゃないか、と怒った。それは尋常ではない怒り方で、実家の母などはあまりぴんときていなかったようだけれど、妹の旦那さんと私は、妹がなぜそんなに怒っているのかが痛いほどわかり、ほんとうは泣きそうだったけどそしらぬふりで「ほんとひどいね、サイテーの看護婦!」などといっしょにぷんぷんしてみせたのだった。(妹はその後も復職したときのためにと語学の勉強を始めたり、車椅子生活が決まった際にも「車椅子の家庭裁判所調査官ってかっこよくない?」などと気丈にふるまっていた。すごすぎる。)

 

妹が高校生の頃、私は同じ高校のテニス部のコーチをしていた。そのときの教え子で妹と同学年の子が、数年前にやはり癌でなくなった。Yちゃんが闘病しているらしい、という話を同期の子から聞いた。お見舞いに行きたいと思ったけれど、時期をみているうちにその日がきてしまった。Yちゃんはすらりと背が高く、やさしくはにかんだ笑顔が印象的な可愛らしい高校生だったけれど、実はチームメイトの誰よりも負けん気が強く、プライドも高かったのではないかと思う。ほかの同期の前衛3人が華々しい戦績だったのに対し、Yちゃんはテニスの実力はだいぶ落ちる、というか、ほとんど初心者というくらいのレベルだった。それでも毎日欠かさず練習に参加し、ともに泣いたり笑ったりの日々を過ごした。ところが2年生になってから、彼女は腰を痛めてしまい、通常の練習プログラムをこなせなくなる。夏の合宿ではほとんど練習に参加することができず、2学期に入ってテニス部を辞めたい、と言ってきた。

 

私はびっくりして、もう一人の大学生コーチといっしょにYちゃんの家に行った。腰は辛抱強く治せばいい、いつか必ず復帰できると信じて、できることをやっていこう、と話したら、彼女はハラハラと泣き出した。「先輩がそう言ってくれるなら」と言って、なぜテニス部を辞めようと思ったかを話してくれた。夏合宿の際、年配のOBから、「マネージャーになるとか、みんなをサポートするような形でテニス部を続けるという道もある」というような言葉をかけられたのがショックだったのだという。自分はもう、選手としてはいらないと思われているんだ、と感じたらしい。「私はYちゃんにマネージャーになってほしいなんて思ったことは一度もないよ」と言ってその日は結論を出さずに帰った。Yちゃんは結局、引退まで選手としてテニス部を続けた。たしか一勝もできなかったと思うけれど、引退したときは最高の笑顔だった。

 

妹のことも、Yちゃんのことも、今はもうこの世にいなくて、こういう昔話について詳細を確認しようと思っても、もう確認できない。だからもしかしたら私の思い込みや記憶違いがあるかもしれなくて、もしかしたら私の作り話かもしれなくて、でもだれもそれを訂正してはくれない(いや、そのときいっしょにいた人は訂正できるのか、妹の旦那とか、いっしょにYちゃん宅に行ったコーチ←誰だったか思い出せない。R先輩かA子かK先輩のだれかだ、とか)。だからこそ、できるだけいろんなことを、書き残しておこう。大きなことも、小さなことも、あとで読み返したり、思い出したりできるように。山本さんが『無人島のふたり』(ああ、なんていいタイトルなんだろう)を書き残したように。

 

 

 

10ヶ月ぶりの投稿

11月は誕生月ということもあり、自分の越し方行く末について思いを巡らすことが多い。先週はフリーランス仲間の女性と、高校時代からの親友、二人の同世代女性と会食の機会があったせいか(そして二人がそれぞれに自分の人生を切り開こうとしているということもあり)、今日はバースデー割引で入った都内の温浴施設でまったりしながら、これからのことをああでもないこうでもないと、ひとり考えていた。

 

設立した会社はいわゆる「ひとり出版社」ではない。「ふたり編集プロダクション」、つまり、出版社からの依頼で編集作業全般を請け負うフリーランス編集者がふたり所属している株式会社だ。だから基本的には、共同経営者の同居人は同居人で、私は私で、それぞれの前職での経験や人とのつながりをいかして、それぞれで仕事をしている。会社のツイッターアカウントは彼がたくさん投稿をしてくれて、おかげでフォロワー数もだいぶ増えている。だからといってそこから仕事が入ってくるなんてことは、まあ、ほとんどない。

 

だから仕事の内容は、実は在職時とあまり変わらない。ただ、気が進まない仕事は受けないので、どの仕事もそれなりに楽しさを見出すことができるし、前職の会社では手がけることが難しい(または難しくなってしまった)ジャンルの本の編集にかかわることができることもあってそれはなかなか魅力的。時間・コストの管理や人間関係のストレスはないし、そういう意味では最高の職業生活で、自分にはこのスタイルが向いているような気はしている。

 

ただ、このままでいいのか、というと、どうなのかなーとも思う。ありがたいことに来年もいくつか、編集のお仕事をいただいていて、多くが企画段階からかかわっているので、今後の展開が楽しみではある。でも、いずれも前職のつながりをいかした著者の本なので、来年はあっても、再来年はあるかな、3年後まで続けられるかな、と思うと、どうかな、と思ったりもするのだ。

 

こんなふうに思うのは、目の前で同居人が、仕事につながるかどうかとか関係なく、どんどん新しい著者の本を読み、映画をみたり、ツイッターで追いかけたりしている姿を見ているから。彼は定年退職なので、3年後、5年後に仕事がなくなったらどうしよう、とかはあまり考えていなくて、なくなったら仕事場たためばいいよね、くらいにしか思っていないっぽい。だけど、別に「著者の開拓」とかじゃなく、この本おもしろいよ、と今自分が読書中の本の内容を嬉しそうに話して聞かせてくれる(時々うるさいと思うくらいに)。

 

今日読み終わった本、日暮雅通シャーロック・ホームズ・バイブル』は、これと同じ思想というか、スタイルで書かれている、と思った。この本はもちろん商業出版として世に出ているわけだけど、日暮さんはきっぱりと、「シャーロッキアンに野心や功名心は無縁だ」と書いている。たしかに、それで利益を得ようとか、儲けようとか、何か実利的な目的を持ち込んでしまったら、もうその活動そのものを楽しめなくなるような気がする。

 

 

同居人と私とでは、編集の仕事のキャリアも、仕事の仕方も全然違っている。そもそも30年以上前にアルバイトで入った会社で同居人の仕事ぶりや読書量を見て、私は編集者になる夢をあきらめたくらいだから、スタートからして全然違うのだ。その後も私はあらゆる面でぐちゃぐちゃの人生を歩んできたけれど、彼はまっすぐにひとつの会社で専門知識を積み上げ、その傍ら淡々と好きな本を読み、感想を書く、という生活を続けてきた。それはもう、違っていて当然だし、いまさら真似をしようとか、追いつこうとか考えているわけではない。ただ、こういうすごい編集者を共同経営者として会社をたちあげてしまった場合、自分はどんなふうに仕事をしていけばいいのか、自分には何ができるのか、青臭いと言われるかもしれないけれども、考えなくちゃいけないなあと思っている。

 

そんな中で、ちょっとだけヒントのように思ったのは、先述のフリーランス仲間から「ブログをはじめた」という話を聞き、高校時代の親友から「北烏山だより、やめちゃったの? 面白かったのに」と言われたこと。そうだなあ、たしかにこのブログは、別に仕事につなげようとか「発信の場」とか考えず、自分が読んだ本の感想とか、講演会の内容とか、だらだら書き綴っていただけだけど、ずいぶん経ってから読み返すと、結構面白かったりする。お、我ながらよくかけてるじゃん、みたいな。というわけで、ちょっと初心?にかえって、会社の仕事とは関係なく、「野心や功名心とは無縁」なブログを、もう少し書いてみようかな。(しかしここ数年、何度もこの決意をして、そのたびに挫折しているのだけれども)

 

二冊読了

圧倒的な迫力のある本を二冊読了した。安易に「面白かった!」などという感想は書けない、魂の叫びのような著作。共通するのは「できごとや思いを文章にする」ことに対する、著者の不器用なまでのひたむきさ、誠実さだ。

 

わたしが自分の好みで本を選ぶ場合、そのほとんどがフィクション、小説だ。海外のものも国内のものも、文学もミステリなどのジャンル・フィクションも、わりと手当たり次第、おもしろそうだと思ったものをどんどん読む。あれ、はずれた、と思うこともないわけではないけれど、たいていはのめりこんで一気に読める。

 

一方、ノンフィクションに対してはやや保守的。自分で選ぶというよりは、信頼している人が面白いと言ったとか、書評を読んで興味を持ったとか、何かのきっかけで手にとることが多い。『私の脳で起こったこと』は、最近会員になったALL REVIEWSのメルマガで紹介されていたのを読んで買って、一日で一気に読んだ。『当事者は嘘をつく』は、先ほど読み終わった。この本との出会いは、少し複雑だ。

 

『当事者は嘘をつく』の著者の書いていたブログを、熱心に読んでいた時期がある。同居人も読んでいて、著者のことを我が家では「きりんさん」と勝手に呼んでいた。文面から察するにまだ20代なのに、おそろしく思索が深く、文章がうまい。それにくらべて、自分が垂れ流している身辺雑記はなんでこんなにくだらないんだ、というような気持ちになったのと、あまりに繊細すぎる文章と、次第に学問的になっていく内容についていけなくなったということで、あまり読まなくなってしまった。自分自身がブログをほとんど書かなくなってしまったということも大きい。

 

それがつい先日、ツイッターでこの本についての書き込みを見かけて、「あれっ」と思った。同居人に、「これ、きりんさんじゃない?」と言ったら、同居人はどれどれ、と言って検索し、まえがきの抜粋を読んで、さかんに感心していた。で、気づいたら翌日には、我が家のリビングのテーブルにこの本が置いてあった、というわけだ。

 

二冊とも、すごい本だった。と同時に、最初に書いたように、安易な感想を拒絶するテーマであり、内容なので、内容についての感想めいたことはわたしにはうまく書けない。ひとつだけ言いたいのは、「どちらも、ぜひ、最後まで読んでほしい」ということだ。前述のように、わたしや同居人だって、書評や宣伝の一部抜粋がきっかけでこの本を手にしたのだから、もちろんある程度の魅力は一部だけ読んでも伝わるにちがいない。でもこの本は、たとえばせっかく手にしたのに、まえがきだけとか、一章だけ読んで、(私が小説で時々やるみたいに)合わないな、とか、つまらない、とかで、途中でやめてしまってはいけない種類の本なのだと思う。時折つらくなって読めなくなったり、立ち上がって紅茶を入れて気合を入れ直したりしながら、最後まで読んで本を閉じたときの感動というか、うーん、「感動」ってなんか安っぽいよなあ、「読みました!」というか、「受け取りました!」という感覚は、なにものにもかえがたい体験だった。

 

昨日の夜は同居人と二人で、歌人の上坂あゆ美さんの歌集『老人ホームで死ぬほどモテたい』の刊行記念オンラインイベントを視聴。これもとてもいいイベントだった。聞き手の若い書評家さんもとてもよくて、同居人と二人で、自分の年齢の半分くらいの人たちの話に聴き入り、いいイベントだったね、と言い合い、少しだけ、自分たちはだいぶ年をとってしまったね、と寂しいような気持ちになったのだった。

 

 

でもね、本を読む習慣があるということは、ほんとうに幸せなことだよ。わずか数千円で、上記三冊に描かれた世界を体験できるのだから。(図書館を使えば無料で!)この間、ほかにも何冊か、フィクションを読んだのだけれど、その感想は、また後日。(そういえば、今気づいたのだけれど、上記の二冊はどちらも筑摩書房なんだね。さすがだ。)

 

レーニングはここ3日ほど、サボってしまった。明日は何がなんでもジムに行かないと、またいつものずるずる行かないパターンに陥ってしまう。。。