海外文学の企画を出してみたころ

お花見の季節に前職の出版社を訪れたせいか、20年くらい前にお花見の席で、海外文学の企画をボツにされたことに抗議したことを思い出した。そのとき私の抗議を受け止めて話を聞いてくれたのが、今日、業務委託のお仕事を発注してくれたTさんだ。

 

企画の出し方というのは会社によってずいぶん違っていて、たとえば業務委託の仕事を受けたことのあるK社は、編集・営業など部門にかかわらず、いつでも誰でも企画が出せるという羨ましいシステムだ。ただこれは、K社が比較的幅広いジャンルの本を取り扱っているということに拠るところが大きい。前職の会社は辞書と教科書がメインの出版社で、辞書の担当者はひたすら辞書を作り、教科書の担当者はひたすら教科書を作っていた。たまに単行本を作る機会もあったけれど、それは辞書なり教科書なりから派生するものに限られていた。だから翻訳や海外文学の企画を出したいと思っても、「出版企画センター」というような部署に所属する一握りの人しかそういった企画を出すことができない。

 

ところがあるとき、たしか創立130周年の企画を募集!という掲示が出た。この記念企画には、編集・営業かかわらず、誰でも企画を提出することができるのだ。今思えばしっかりとした募集要項もなく、提出方法もふんわりしていたから、会社が本気で企画を集めていたとは思えない。でも当時教科書部に所属していた私は、「企画が出せる!」と思って張り切って企画書を書いた。募集要項もないし企画書のフォーマットもないから、A4の紙に3ページくらい、たしか3つくらいの企画のアイディアを記したメモのような企画書。そのうちの1つが、海外文学のアンソロジーだった。まわりの誰も、応募している様子はなく、選考の過程の報告もなく、ずいぶん後になってから、重厚な辞書企画が創立130周年記念として進行していることを知った。

 

企画を提出した直属の上司に、私が出した企画はどんなふうに検討されたのか、なぜボツだったのか、教えてほしい、と訴えたけれども、上司はまったくわからない、の一点ばり。あまりしつこく尋ねるので、とうとうある日、当時の出版企画センター長に談話室に呼ばれ、簡単な説明を受けた。ひとことでいうと、会社が求めているものではない、ということだった。応募がどれくらいあったのか、選考過程はどんなふうだったのか、などは何も教えてくれなかった。もやもやだけが残ったけれど、教科書の仕事ももちろんやりがいはあったし忙しかったので、この企画のことはしだいに頭から離れていった。

 

そして花見の日。たしか当時、新入社員の歓迎の意味をこめて、一駅先の飯田橋のお濠で花見の宴をする習わしがあった。この席で、なぜか130周年企画の話題になり、ひとりの先輩が、わたしの企画書のことを「あんなゆるい企画じゃだめだよ」と言ったのだ。彼がどういう立場でわたしの企画書を読んだのかはわからない。でも、私としてはめいっぱい勇気をふりしぼって出した企画をそんなふうに言われたことが悔しくて、ものすごい勢いで食い下がった。かなり感情的になっていたかもしれない。新入社員歓迎の席の雰囲気をもしかして悪くしてしまったかもしれない。今となってはもう覚えていないのだけれど、そのときにちゃんと話を聞いてくれた人が、今日、仕事の依頼をくれたTさんだった。

 

それから10年近く、わたしは教科書の仕事を続け、Tさんとは激しく対立することもあった。「あなたはわたしの希望を叶えてくれたことはただの一度もない!」と非難したこともある。けれどもわたしが50歳になった年に、彼は私の年来の希望を叶えてくれた。一般書出版部への異動だった。

 

異動2日目に、わたしは以前から懇意にしていた版権エージェントを訪れ、これから翻訳書の企画を出せる部署に異動になったからよろしく、と挨拶に行った。企画が出せるのが嬉しくて、どんどん企画書(今度はちゃんと決まったフォーマットがあり、企画成立要件があり、突破しなければならない企画会議が複数回設定されている)を書いた。最初のうちはボツの連発だったけれど、だんだん会社の求める方向性も見えてきて、企画会議突破の確率もあがっていった。少しずつ、文学の企画に近づいった。シェイクスピア、世界文学、シャーロック・ホームズの文学3点セットを出すこともできて、そしてついに、少し形は異なるけれども、あのときにボツになった、世界文学のアンソロジーの企画を通すことに成功した。会議で後押ししてくれたのは、花見のときに話をきいてくれたTさんだ。

 

最後の2年間は、学習参考書を作る部署に異動になり、翻訳書の編集からは離れた。退職後、独立して、やっぱりやってみたいと思ったのは、海外文学の企画だった。会社の規模が小さいから、「どんどん」出すというわけにはいかないけれど、企画・編集からデザイン・販売まで、全部自分たちで行うという醍醐味がある。企画を通すも通さないも自分たち次第。私が突っ走りすぎてたまに慎重な同居人からたしなめられるけれども、それもいいバランスなのだと思う。あの花見の席で、むきになって抗議していた40代の私に、こんな未来が想像できただろうか。海外文学の翻訳出版が厳しい状況にあるのは、当時もいまもかわらない。というか、今のほうがさらに厳しさは増しているだろう。前職の出版社と私の出版社では、規模が全然違うけれども、厳しい状況にあるのはきっと同じだ。大きいところは大きいところの、小さいところは小さいところなりの悩みがある。それぞれの場所で、それぞれのやり方で、作りたい本を作っていけばいいんだな、とあらためて思った。

 

明日は別の会社の請負仕事、19世紀文学の傑作大長編の入稿準備だー!

英文科に入ったころ

私が大学の英文科(正確には文学部英米文学科)に入ったのは、もう40年以上前のことだ。テニス三昧の3年間の最後のちょびっとだけ猛勉強をして、第一志望の私立大学に運良く入学できた。ただ、実は最初から英文科志望だったのではない。女子大の国文科卒の母から「文学部はやめておけ」と散々言われていたのと、高校の世界史の先生が大好きだったので、歴史の先生になりたいと思って、第一志望は史学科だった。たまたまその大学は第二志望、第三志望を書く欄があって、何気なく書いた第二志望の英米文学科に合格できた、ということ。つまり合否すれすれのところで滑り込んだ、というわけだ。

 

でも、なんでも自分の都合のいいように考えるのが私の得意技で、合格が決まってすぐに、英文科でよかった、と思った。入試が終わったらとにかく本が読みたい、と思っていたので、文庫本をどっさり買い込んで読み漁った。日本の小説ばかり。日本の小説は毎日の食事をするように読むことができるけれど、英語の小説はそうはいかない。大学の英文科に入ったら、英語の小説をすらすら読めるようになり、英語はペラペラになって、卒業したら英語を使ったお仕事ができる人になるんだ!と夢はふくらんだ。

 

それが大きな誤解だったことは、わりとすぐに明らかになった。英文科では1年生から外国人講師によるオールイングリッシュの授業が複数あった。たしか、英文学史1、英会話、英作文、LL教室の4つ。田舎の公立高校でテニス三昧の高校生活を送った私は、当時、ほとんど外国の人と接したことがなかった。もちろん中学高校にAETなんていなかった時代。大学のオールイングリッシュの授業にまったくついていけなかった。最悪だったのがLL教室で、ミセス・ヤマサワの言っていることが、ほとんど聞き取れない。英語のビデオを見て、どんな場面なのかを言いなさい、とか、この続きを想像しなさい、と言われるのだけれど、電車の中で男の人と女の人がなんか揉めてる、くらいしかわからない(要するに画像からの情報だけ)。このままでは落第してしまうと焦って、1年生の終わり頃からアルバイトでためたお金で英会話の学校に通い始めた。

 

一方、日本人講師による英文科の授業はどれもとても楽しかった。1年生のときはロレンスやサキの短編、トインビーの評論、2年生からシェイクスピアの授業がはじまり、ブロンテの「嵐が丘」や、ワーズワースやコールリッジの詩、スモレットの小説、文学史の授業でも次々に新しい小説が紹介されて、多くは翻訳が出ているので張り切って読んだ。仏文学概論B、という科目も選択していて、授業内容はあまり覚えていないけれど、紹介された仏文学の名作を次々に読んでいった。

 

家から大学までバスと電車を乗り継いで2時間くらいかかるので、本を読む時間はたっぷりあった。当時はアルバイトと高校の部活指導が生活の中心になっていたけれど、大学のサークル活動などをしていなかった(1年間だけ体育会軟式テニス部にいた)ので、大学との接点は英文科の授業のみ。でも、選択したゼミ(イギリス詩)が超少人数だったため、先生からマンツーマンに近い指導を受けることができた。卒業論文ジョン・キーツで書くことにした。先生から推薦された英語と日本語の論文をせっせと読んで、なるべく英語の論文のほうを多く引用しながらまとめた。卒論は日本語でも英語でもどちらでもよかったので、私はもちろん日本語を選択。短い英文の梗概をつける必要があったのだけれど、それを読んだ指導教官はひとこと、「卒論、日本語で書くことにして正解だったね」と言った。

 

シェイクスピアの授業が大好きだった。先生の朗読がほんとうにかっこよくて、私もあんなふうに読めるようになりたい、と思った。英文科の4年間だけでは、残念ながら英語の小説がすらすら読めるようにも、英語ペラペラにもならなかったけれど、誰に遠慮することもなく、ただただ本を読みふけることのできる幸せな時間だった。その後の40年間、いろいろな仕事をして、英語や英文学とのかかわりもいろいろな形であったけれども、今はまた英文科に入ったころの気持ちに近いところに戻ってきている気がする。

 

というわけで、月に1度、カルチャーセンターでオースティンの講義を受けはじめた。仕事で英米文学の翻訳書の編集をしたり、趣味で英文学のクラブに入ったり、イギリス旅行をしたり。英文科に入ったころと変わらず、いまも話したり聞いたりするのは苦手だけれど、いまはAIもあるし、旅行くらいならなんとかなる。いまの目標はイギリスでお芝居を観て、現地の皆さんと同じところで笑えるようになること! 先生のシェイクスピアの朗読に聞き惚れていた20歳の頃と、ほとんど、というか、全く変わっていないじゃないかー。

眠れないので書いてみる

もう二年くらいブログを更新していないのだけれど、眠れないのでめちゃくちゃ久しぶりだけどブログを書いてみることにした。久しぶりに開けてみたらはてなブログもいろいろ変わっていて、AIのアシストとかフォトの貼り付けとか新機能ができてるみたいだ。

 

ブログを書いてみようと思ったのは、ダイエットをするにあたり、ここ20年で一番痩せていたのはいつか、太っていたのはいつか、を調べていて、2017年の11月24日が一番痩せていたようだ、ということがわかり、その頃どんな生活をしてたのかなーと思って、久しぶりに当時のブログを見返してみたから、というおかしな理由。

 

わたしのブログは定期的にというか、かなり頻繁にダイエットの話題が書いてあって、とにかくがんばる!と書いているかと思うと、思うように進まずに落ち込み、同居人に馬鹿にされ、悔しいんだけどどうしても続かない、という繰り返し。ほんとうに情けないかぎりだ。

 

まあダイエットのほうはこれからがんばる(!)ことにして、問題の2017年当時のブログ、なんだけど、2018年の年末に、「大村はまとナンシー・アトウェル」というタイトルの記事を書いていて。『イン・ザ・ミドル』という本を作ったときに、その本への思い入れを書いたものだけれど、20代後半に中学校の国語の先生をしていたときのことから書き出していて、もう何年もの間思い出すことのなかった神奈川県の教育センターと講演会の様子をぼんやりとだけれど思い出した。それから2018年当時、あの手この手で必死にこの本の企画会議をとおしたことや、先生方に何度も校正や修正をお願いしたこと、発売直前に部数を減らされたんだけど結局重版して「どうだ!」と誇らしく思ったことなど、こっちはわりと鮮明に思い出した。

 

この頃にはもう、ツイッターをはじめていたから、ブログの更新は滞りがちだったけれども、やっぱりこうやって書き残しておくことはすごく大事なんじゃないか、ツイッターというかXに比べると読んでくれている人の反応がないのでちょっと物足りなく思えちゃうけど、自分にとってはこうやって、一番痩せていたときにはどんなふうに生活していたんだろう? とか、野崎先生の講演をはじめて聴いたのはいつだったっけ? とか、調べることができるし、教科書の仕事をしていた頃はずいぶん上司と衝突したり上司に腹を立てたり涙にくれたりしていたんだなー、とか、眠れない夜にいろいろ読み返すのも悪くないな、と思った次第。ちなみにこのブログをかきはじめたのは2006年、もう20年近く前ということだ。わたしはまだ40歳そこそこの若造だったのだわー。いま住んでいるマンションに引っ越してきたばかり。越前さんの訳書『ダ・ヴィンチ・コード』を読んで、「エンタテインメントの読書の楽しみを堪能。作品の出来がいいのはもちろんだけれど、翻訳がうまいのも売れ行きに影響していると思う」なんて書いてる。まさか20年後に、その人が「死んだらお棺に入れてほしい」というほどの大切な本を世に出すために、築20年近くなった自宅マンションで出版社をはじめることになるとは! 人生はわからないものだな。

 

ありがたいことに、失敗続きはダイエットだけで、そのほかのことはおおむね順調、かな。そろそろ夜が明けそうだけど、全然眠くないよー。

怒濤の2023年〜とにかく続けることが大事

怒濤の2023年がまもなく終わる。『オリンピア』刊行が決まってからの日々があまりに濃厚だったので、なんとなく今年は『オリンピア』一色だったような気分になっているけれど、手帳を繰ってみると実際は1月は指導書一色で、2月からは河出の〈14歳の世渡り術〉シリーズ3点がゆるやかに同時進行し(うち2冊は年内に刊行済み)、さらに光文社古典新訳文庫の『ドラキュラ』には6月のイギリス旅行を含め公私混同ぎみで取り組み、5月から三省堂の教科書アンソロジーの許諾作業に着手(無事年内校了した!)。という具合に、ほかの仕事もずいぶんいっぱいやっていたみたいだ。見習い期間だったとはいえ、英文学会事務局の仕事も4月から始まって、11月12月は『オリンピア』刊行後のめまぐるしい忙しさの中、ほぼ週2回、飯田橋の事務局に通っていたというのは、我ながらよくがんばったのではないかと思う。

 

さらにボランティア仕事も多い1年だった。自宅のマンション組合の理事の順番がまわってきてしまい、その分担でコミュニティ協議会というのにも参加しなくてはいけなくなり、月2回土曜日の午前中がつぶれる。趣味のクラブの機関誌編集のお手伝いと大会準備委員を引き受けてしまったため、こちらもそこそこ時間をとられる(こっちは趣味のクラブなので喜々としてやっているけど)。この状況は来年ももうしばらく続く。

 

幸い近くに住む母がとても元気で介護等の心配はなく、子供もいなくて同居人はまったく手がかからない(というか洗濯もしてくれるしお弁当も作ってくれる)ので、仕事や自分のことに没頭できるありがたい環境であることは間違いない。忙しさのしわ寄せが何に来ているかというと、やっぱり「読書」である。とくに『オリンピア』の刊行が決まってそれにともなうもろもろの作業がはじまってから、ほとんどまとまった読書の時間がとれなくなった。唯一死守している週1回のお休みの時にも、ついスマホでいろいろな情報をチェックしてしまったり疲れて寝てしまったりして、鞄に入れている数冊の本を開くこともなく過ぎてしまったりしている(ちなみに同居人はどんなに忙しくても淡々と本を読み続けている。そしてその本が面白いとか面白くないとか、他人にとってはどうでもよい情報を延々と報告してくれる!)。

 

一方で、本をめぐる情報がこれまで以上に入ってくる環境になったこともあり、買うほうはものすごく「お盛ん」だ。じゃんじゃん買って、じゃんじゃん積む。すっきりきれいだった自室が、だんだん同居人の部屋のようになってきて、巨大な作業机の上のあいているスペースがなくなって、作業をするたびに机上の本を床におろし、部屋を出る際に通り道を作るため床の本を机上に戻すという、本に包囲されているような状況だ。来年はとにかく、本を積むだけじゃなくて読みたい。別に仕事に役に立つとか同居人のように立派な感想文を書くとかしなくてもいいのだ。以前のように興味のおもむくままに本を読み、すごい面白い!とか、うーむいまいちだったなとか思いながら、だらだら本を読む。これが来年の目標。

 

でも、この1年を総括するとしたら、やっぱり『オリンピア』なんだろう。1月の手帳のページに、・出版社化検討(〜5月)とある。この時点ではまだ、『オリンピア』自社出版の姿はまったく見えていなかった。2月に越前さんにメールを送り、奇跡のようにすべてが動き出した。2月11日の手帳には、手書きで『オリンピア』の奥付イメージが記してある。「発行所 株式会社北烏山編集室」と、誇らしげに書いてあって笑ってしまう。このときの奥付日は、2023年10月30日。横に「退職2年後!」と書いてある。そうだ、私が20年近く勤めた出版社を退職したのは、2021年10月30日だった。結局、実際の刊行はこれより2ヶ月遅くなってしまったけれど、何もかもゼロからはじめたことを思えば、まあ上出来なのではないか。(ちなみに越前さんの原稿はできあがっていたし、校正もものすごいスピードで戻してくれたので、遅れの責任は100%私にある。)

 

それからの『オリンピア』をめぐるあれこれは、11月終わり頃からのブログに書いてきた。その後、複数のイベントを終え、「どこでもMy FAXセンター」というタイトルの注文FAXや、「書店様からのご注文」というタイトルのBookCellarからのメールに一喜一憂する日々が続いている。(注文なのになぜ「一憂」するのかというと、「どこでもMy FAXセンター」からの注文FAXは、トランスビュー扱いのすべての版元さんあてのFAXが入ってくるからだ。期待に胸ふくらませてメールの添付ファイルを開いては、ああ、またよその版元さんのものだった、とがっかりする。最初のころは、ほかの版元さんのFAX-DMを見て、ああ、こんな本が出てるのか、とか、FAX-DMの作り方がうまいな、とかいろいろ思っていたのだけれど、送られてくるFAXの量が膨大なので、だんだん他社宛の注文に対しては「無」の境地でのぞむようになった。先日そのことを先輩の版元代表さんに話したら、「あ、あのFAXは全然見てません」とのことだった。たしかに、このFAXは見逃しても、ちゃんとBookCellarさんから注文のメールは来るので、別にいちいちFAXを開く必要はないのだ。ああ、それはわかっているのだけれど、やっぱりかすかな期待を抱いて、ひっきりなしに入ってくる「どこでもMy FAXセンター」の添付ファイルを、今日も休まずチェックし続ける……)

 

ひとり出版社や独立系書店の代表の方のブログなどを読んでいると、やっぱりお金まわりのことが精神的にも時間的にも大きな割合を占めていることがわかる。これは弊社の場合も同様で、会社を設立した時からずっと、経理はわたしが行っているのだけれど、『オリンピア』の刊行が決まってから、経理についての作業量も悩みも、格段に増えた。わたしはお金の計算なんて全然得意じゃないし、あまり関心もなかったのだけれど、いざはじめてみると、意外に面白いというか、新しく知ることやわかることがたくさんあって刺激的だ。新しく知ることやわかることの内容は、ざっくり言うと「なかなか厳しいね」とか「儲からないね」ってことなんだけど、じゃあこれをどうしたらいいのか、どうやって乗り切ったらいいのか、考えるのは、まあ楽しくないこともない。もちろん、「意外に儲かるじゃん」とか「右肩上がりで見通し明るい」とかだったら、そのほうがずっといいけど、それはないことを前提に仕事をしていれば、それが訪れたときの感動もまた百倍、というものだ。

 

さて、来年の自社出版については、すでに2冊の刊行が決まっている(おそらく来年5月)。未経験だった印刷〜流通の流れについても、苦手な経理作業も、とりあえず1冊やってみたから、来年はもう少しスムーズに進められるのではないかと思っている。ひとり出版社の先輩方からいただいた、「とにかく続けることが大事」という言葉を胸に、請負仕事やボランティア仕事や個人的な読書や経理を含む事務作業とバランスをとりながら、来年もがんばってみよう。

 

………さて、これから今年一番のお楽しみ。横浜イベントへ出発!

 

 

 

 

本は1冊ずつ売れていく

眠れないのでブログを書くことにした。一昨日、12月5日(月)は弊社刊行第一弾、『オリンピア』の発売日だった。会社設立から『オリンピア』刊行までのことをブログに書いてみる、という当初目標は一応終わったので、これからは従来どおりの「北烏山だより」に戻る。(といっても、この2週間ほどの書き込みも結局のところ情報量は少なくて自分の思い優先の日記になってしまったけれど)

 

サラリーマン編集者だった私たちが出版社をつくってここまで走ってきて、やっぱり一番難しいのは宣伝・営業だ。『オリンピア』について言えば、流通代行のトランスビューさんのおかげで、とりあえず発売日当日にこの本を手にしたい、と思ってくださった読者の方の手に、きちんと届けることができた。これから先も、行きつけの書店で予約してくれれば、それほどお待たせすることなくお届けできるはずだし、複数のネット書店からも、早ければ1日で購入することができる仕組みが整った。そして何よりも、予想以上にたくさんの部数をTRC(図書館流通センター)がとってくれたので、地元の図書館で簡単に入手できるはずだ。

 

翻訳者の越前さんのおかげで、イベントも複数企画されている。ひとつめの朝日カルチャーセンター新宿は、会場とオンラインあわせて50名近くの方に参加いただき、質問も多くでて、ありがたい感想もたくさん寄せていただいた。先行販売&サイン会つきだったからか本もよく売れて、お客様に直接『オリンピア』を手渡すという感動体験も味わうことができた。参加してくださった方々、朝日カルチャーセンターのご担当者さまにも、心からお礼を申し上げる。

 

このあと青山ブックセンター、京都CAVA BOOKSと、越前さん企画のイベントが続く。昨日は福島での読書会のお知らせもいただいて、版元としては感激して越前さんの後をよちよちついていくばかりだ。さらに年末には、国書刊行会の樽本さんのはからいで、海外文学の出版社の編集者がずらりと並ぶ恒例「よんとも年末スペシャル」にゲストとして呼んでいただいた。ここまでくるともう、身の丈にあっていないというか、どうしていいかわからない、というのが正直なところ。でも『オリンピア』のことを考えると、ひるんでいる場合ではない。越前さんや樽本さんからは「楽しんでやってください」と言われるから、あまり思い詰めず、自分がその時間を楽しく過ごすようにつとめたい。

 

そしてここまでは、トランスビューさんをはじめ周りの人たちのおかげで、なんとなく普通の出版社っぽく、販売のスタートを切ることができた。それだけだって奇跡だという気もするけれど、問題はこれからだ。いまはこの2週間ほどのあいだに予約発注してくれた限られた書店さんにしか在庫はない。たまたま最初に2冊注文してくれた書店さんの在庫をみたら、いまは0になっている。ということは、最初の2冊はお客様の注文で、それをお渡ししてしまったからいまは0。で、だからといって、自動的に追加発注があるわけもなく、ほとんどの書店さんがこういう状況のはずだ。このあと、どうしたらいいのか。やっぱり一件一件書店さんをまわる? 子供の頃から本やさんに行くのは大好きだし、ちょっとでも隙間時間があれば本やさんに入ってる人生だけど、でもそれとこれ(「書店営業」ってやつ)は、別物。迷惑じゃないかなーと思ったり、うまく話しかけられないですごすごと帰ってくる予想図が頭に浮かんだり、なにかと理由をつけて尻込みしている。

 

でも、発売日から3日が過ぎてあらためて実感したのは、本は1冊ずつ売れていく、ということだ。トランスビュー方式はそれがよりはっきりと目に見える形でわかる。日本のどこかの書店にお客さんが予約で訪れ、その1冊の注文が届く。トランスビューの倉庫から1冊が出荷され、書店さん経由でお客さんの手に届く。その一連の流れを思い描くことは感動的で、もうこれで胸がいっぱい、これで十分、という気持ちになりそうなんだけど、まてまて。この光景が、日本全国で、数千回繰り返されないと、『オリンピア』はトランスビューの倉庫で10冊ずつ茶色い紙にくるまったまま、じっと眠っていることになるのだ。かわいそうすぎるじゃないか、『オリンピア』が。やっぱり、日の目を見させてやりたい。ではどうやって、上記の風景×数千回を確保するんだろう。ほかの出版社さんはどうしてるんだろう。やっぱり「書店営業」ってやつか。そこへ行き着くのか。

 

SNS時代のいま、わたしたちのような極小出版社にとって、SNSは重要な宣伝ツール。だから、SNSを通じていろいろいやな思いをしたり、時間泥棒だなと思ったりしても、やっぱり手放せずにいる。サラリーマン編集者時代から、編集者が単独で、無料で宣伝活動できる媒体として、Twitterには本当にお世話になってきた。会社のアカウントについては同居人が熱心に投稿してくれているのでありがたい限り。おかげさまでフォロワーさんも増えて、この規模の出版社アカウントとしてはできすぎだと思っている。だけど一方で、いろいろな方が指摘されているように、TwitterじゃなくてXだけで情報発信しているのは危険だし、限界があるというのもわかっている。

 

で、新聞広告。たまたま今週の土曜日の毎日新聞に共同広告を出す、という話があって(これって事前に書いちゃいけない内容かな、だったらあとで消す)、はいはい、って手を挙げたのはいいものの、広告の作り方がわからない。二人とも、会社員時代は社内の宣伝担当者にお任せで、文面の校正をするくらいしかしてこなかったのだ。しばらく購入したばかりのイラストレーターをがちゃがちゃ触ってみたものの、現時点では無理、とあきらめて、急いで某サイトに登録し、超特急で仕事をしてくれるフリーランスの広告デザイナーさんにお願いすることになった。このサイトは、システムはよくできているし、お願いしたデザイナーさんはきちんと仕事をしてくれた。けど、私たちとしては、予定外の出費と時間の消費があったわけで、広告ができあがるまで、なんとなくイライラぴりぴりしてしまった。これで今週末に広告がでたからといって、いきなりすごい効果が出て注文が殺到するとはとても思えないし、広告が出た当日に一件も注文がない、ということだって十分予想できる。それでも結構なお金をかけて広告をつくり、共同広告を打つことに意味があるのか。よくわからないけど、今の気分としては、まあとにかくやってみましたーという感じ。何事も経験、というか。

 

この新聞広告が出る当日、わたしは前職のOB会に初参加する予定。営業出身の方もいらっしゃるので、できれば相談してみようと思う。本は1冊ずつ売れていく、ということを、会社員時代のわたしは頭では理解していても、実感を伴って納得してはいなかったと思う。わたしが編集者として一生懸命編集した本たちを、一人一人の読者に届けるために奮闘してくれた営業職の人たち(ただ前職は営業部員の大半が学校営業だったのでちょっと事情はことなる)。

 

ただ、営業については、「基本やらない」という小規模出版社の代表の方もいたし、「最初のころはやったけど、いまはほとんどやっていない」という一人出版社の方もいた。たしかに、『オリンピア』のことだけを考えて毎日を過ごすわけにはいかなくて、請負仕事のゲラを戻さなくちゃいけないし、次の本の入稿もしなくちゃだし、事務仕事見習いも、ボランティア仕事もある。それらとバランスをとりながら、『オリンピア』のこれからのこともちゃんと見守り、かつ、毎日を楽しく朗らかに過ごす。うーん、まあ、できないこともないかなあ。

 

深夜の書き込みは、例によってとりとめもなくなってしまった。ああ、もう朝だ。同居人が起き出す時間。ちょっとだけでも寝ることにしよう。

 

 

何事も直感で勝負? 流通を決める

まただいぶ間があいてしまった。いよいよ最大の難関、流通について書く。中規模の版元の編集者だったわたしたちは、本ができあがってから先、印刷(または製本所)から倉庫へ、そこから取次へ、書店へ、といった流れについて、多少の知識はあるものの、ほとんど素人と言っていい状態だ。そのことは会社設立当初から自覚していて、営業販売について、アドバイザー的な人がいたらいいね、とずっと話していた。

 

そんなわけで、小規模出版社の人や出版社経営の経験のある方に話を聞くときは、必ず、流通どうやって決めましたか、とうかがっていた。そもそも、取次制度とは何ぞや、というところから、結構説明が難しい。ひとことで言えば、出版社と個々の書店をつなぐ仲介人のようなもの。出版社は取次に、定価の何割か(だいたい6割から7割のあいだ)で卸して、取次は何%かのマージンをとって書店に卸す。この卸率というのが一律ではなくて、新しい出版社は低く抑えられ、老舗ほど有利、というのが出版界のおそろしいところ。ちなみにわたしたちの前職はいわゆる老舗出版社なので、68%〜72%で卸していたのではないかと思う。新しいところは、そもそも取次が扱ってくれないよ、とか、扱ったとしても50とか言われるよ、とか、いろいろなことがまことしやかにささやかれていた。(これらの噂が真実かどうかは、検証・調査したわけではないのでわからない。)

 

相談した方々のアドバイスを総合すると、

1)大手取次はやはりハードルが高い。チャレンジするなら相当な準備が必要。

2)神田村の小規模な取次は扱ってくれる可能性あり。紹介者などがいるとより話はスムーズ。

3)最近新しくできた出版社は取次ではなく「トランスビュー方式」という直販を使っているところが多い。

4)amazonなどのネット書店には、取次・トランスビュー方式どちらの場合でも扱える。ただし、多少の制約があるので、amazonを重要視するなら「e託」というamazonのシステムが効率的。ただし、卸率は一律60%。

といったところ。わたしたちは当初、「トランスビュー方式」に関心をもちながらも、なんとなくよそ者は入りにくいのではないかとか、若者が多くて浮くんじゃないかとか、あれこれ考えて決めかねていた。それで、前職で多少なじみのあった神田村の八木書店さんに、まずは相談してみよう、と思ってメールを書いたのが、7月の中旬頃だったと思う。すぐにお返事がきて、刊行計画書を出してください、とのこと。『オリンピア』のほかには正式に決まっているものはなかったけれど、いくつか「案」はあったので、それらを並べてなんとか「刊行計画書」を作り、送信した。なお、このとき八木書店さんからは、年に4冊程度、コンスタントに刊行することが望ましい、ということを言われた。なるほど。このとき、ふたりでわあわあ相談しながら、年に4冊程度の「刊行計画書」を作ったことは、自分たちがぼんやり考えていた「やりたいこと」を目に見える形にする、という点で、とても意味があったと思う。出版社をつくるということは、ある程度の覚悟が必要なんだな、ということも実感した。

 

このころ、デザイナーの宗利さんと話す機会があり、流通がまだ決まっていなくて、と言ったところ、宗利さんはぼそっと「トランスビューがいいんじゃない」とつぶやいた。このころまでには「トランスビュー方式」について、それなりに勉強は進めていた。トランスビュー方式について詳しく説明されているバイブルのような本(石橋毅史『まっ直ぐに本を売る』苦楽堂)があるのだけれど、内容が少し古いのと、絶版なので図書館で借りるしかないという側面があり、やっと入手して読了する頃には、ネットでの情報収集がだいぶ進んで、とにかく書店さんの実入りを確保したい、というその理念に心ひかれて、まずは話をききにいってみよう、という気持ちになっていた。

 

トランスビュー方式」は、これまた説明が難しい。でも簡単に言っちゃうと、自動配本をしない、書店からの注文にあわせて本の委託販売を仲介するシステム。本にもネット情報にもはっきりと書いてあるけど、経済面だけを言えば卸率は取次を利用する場合とあまり変わらない。出版社の側での「お得感」はあまりないのだ。じゃあ、どうしてトランスビュー方式は人気があるのか、そもそもトランスビューさんはどうやって利益をあげているのか、契約書店以外にも取次経由で納本できるってどういう意味なのか、amazonとの関係は、などなど、わからないことだらけ。とにかく話を聞きに行こう、とアポをとったのが、7月下旬の猛暑の午後。ふたりで人形町の事務所まで出かけていった。

 

事務所を辞して、人形町の駅へと向かう道を歩きながら、わたしたちの気持ちは決まっていた。いろいろな人が本やネットで書いているから、書いてしまって問題ないと思うのだが、システムや金額がどうこうではなく、決め手は社長の工藤さんのお人柄だった。正直なところ、システムと金額は複雑すぎて半分くらいしか理解できていなかった。今でもまだちょっと茫漠としている部分があるくらいだ。でも、とにかくわたしたちは二人ともほぼ同時に、この人といっしょにお仕事をしたい、と直感したのだ。それを信じてみよう。帰宅してすぐ、「お願いします」とメールを書いた。「トランスビュー方式」はほかの取次さんと併用もできる。けれども、わたしたちはできるだけシンプルなほうがよいと考えて、当面は、トランスビューさん扱いにしぼることにした。amazonのe託も使わない。

 

この判断が正しかったかどうかは、まあ、これからだ。ただ、校了から見本出来、倉庫搬入、書店さんへの予約注文FAX出し、受注、そして予約分の発送、まで終わった今、ふりかえると、トランスビューさんにお世話にならなかったら、とてもこなすことはできなかった、とあらためて思う。うまく言えないのだけれど、手作り感とIT化のバランスが自分にはちょうどいい。1冊1冊の注文がすべて相手先の姿が見える形で入ってくるという感興と、それらの注文に(こちらから見ると)自動的に応える形で本が出庫されていくという快適さ。(もちろん、人の手でオンライン入力したり、クリックポストの用意をしたり、といった作業をしているのだということを忘れてはいけない。)

 

そして先日は、チラシの発送作業とそのあとの飲み会にふたりで初参加した。作業も飲み会も思っていた以上に楽しくて、いろいろな話が聞ける。出版業のいいところは、同業他社が競合にならないということで(教科書とか辞書とかは別)、わからないことや困っていることがあったら、相談すればだれもが親切に応対してくれる。発送作業に行く前に抱えていた疑問や不安は、数時間の作業&飲み会ですべて解決してしまった。そこでは退職以来、ほとんど接点がなくなってしまった若い人たちとの交流もあり、この人たちといっしょにいると、出版界の未来もそう悲観したものでもないかも、と思えてくるのだった。

 

この会でわたしは、「書店営業って、こんにちはー、って入っていって、レジにいる人に話しかけていいのかしら」と言って、失笑された。「こんにちはー」はOK。「レジにいる人に話しかける」がNGだ。正解は、「目指すジャンルの棚の本を抜き差ししている人に話しかける」だった。土日や夕方の繁忙時は避けて、平日の午後2時〜3時頃、お店がすいているときに行け。とにかく相手の迷惑にならないように注意。いきなり新規開拓をねらうのではなく、まずは1冊でも注文を入れてくれたところに挨拶に行くほうがハードルが低い。等々。貴重なアドバイスをいっぱいもらった。けど、まだ実行に移せていない。

 

税理士さん、デザイナーさん、印刷会社さん、流通会社さん。いずれの場合も、結局は直感というか、「この人といっしょに仕事をしたい」と思うかどうかで、すべて決めてきた気がする。小規模の家族経営だからこその決め方と言えるのかもしれない。次にどんな本を作るのか、どんな仕事を引き受け、どんな仕事を断り、どんなふうに自分たちの生活とバランスをとっていくか。還暦間際での起業ならではの課題もあれば、有利な点もある。ともあれ、「最初の1冊」の発売日まで、あと5日。週末の朝日カルチャーのトークイベントでは、先行販売もある。トークイベントは不安でいっぱいだけれど、本をたくさんの方にお披露目するのはめちゃくちゃ楽しみだー。

 

 

信頼関係をベースに——印刷会社を決める

少し日があいてしまったけれど、印刷会社のことを書く。先日書いたように、わたしたちの前職はたまたまグループ会社の印刷会社があったので、ほかの印刷会社のことをあまり知らない。皆さんが必ずとる、と言っている「あいみつ」というやつも、ほとんどとったことがなかった。

 

前職の最後の1年は学習参考書や教材編集の部署にいて、共通テスト対策の問題集などをつくっていたのだけれど、学校の先生方のご要望にこたえて、バラ解答(問題集の解答編を、模試っぽく使えるように、問題ごと、一人ずつに配れるようにしたもの)を用意することになり、グループの印刷会社は対応に難色を示して高額の見積もりを出してきたため、急遽、外部の会社に「あいみつ」というやつをとった。結果、低い金額の見積もりを出してきた外部の会社に印刷・製本を依頼。作業じたいは大変スムーズに仕事は進み、印刷・製本の流れという意味では、ほとんどストレスはなかった。ただ、決まるまでにさまざまなケースを想定し、何時間もかけて膨大な試算をしたわりに、節約できた金額は微々たるもので、その後、「バラ解答」の注文もごく少数だったと聞いた。わたし自身はものすごく忙しい時期に、膨大な時間をとられた。しばらく頭の中が「バラ解答」でいっぱいだった、という苦い思い出がある。「あいみつ」をとることで、得るものもあれば失うものもある、というのがこのときの教訓。

 

とはいえ、新しくはじめた出版社の印刷・製本をどこにお願いすればよいのか、どうやって決めたらいいのか。こういうことは、まず口コミ。小規模・少部数の出版社の人たちに取材して、具体的な会社名をあげてもらった。すると、複数の人が名前をあげる印刷会社がいくつか出てきた。次に自分たちの本棚からランダムに本を抜き出し、奥付の印刷会社名をチェック。なるほど。小規模・少部数の出版社を得意とする印刷会社が複数あるらしい。相談にのってくれた人たちの意見は、これらの中から三社くらいを選んであいみつをとり、比較して決めたらよい、というもの。

 

問題の「あいみつ」だ。なーんとなく、気がひける。んなことを言ってる場合じゃないし、先方は慣れているから、比較して落選?したって気にしないよ、と皆、口々に言う。でも。「比較しておたくより安くて対応がよさそうなところがあったのでそっちに決めました」(大意)なんてことを言わなくちゃいけないのか。つらい。ぐずぐずしているうちに、どんどん日が経ってしまって、もうほんとうに決めなければ、という事態に至り、ようやく二社に見積もりを依頼した。相談した人たちの口コミ、奥付の調査、会社HPの内容などを総合して、この二社ならどちらに決まっても悔いはない。

 

さて、見積もりが出てきた。ここまでの対応は、どちらもスピーディで感じよく、どちらがよいとも悪いとも言えない。そしてなんと、見積もりの金額も、ほとんど差異がない。なんだよー、これじゃあ決められない。比較をしてどちらかに決めるための決め手がない。(ぱっと見て、どっちも高い、と思ったけど、それはまた、別の問題……)結局、用紙代を少しだけ安く見積もっていた会社のほうに、お願いすることにした。両方にメールを書く。断るほうのメールはやっぱり時間がかかってしまう。いや、こういうのは事務的に書けばいい、そんなことはわかっているのだけれど、わたしは苦手なのだ。(もちろん、先方からは「また機会があればよろしくねー」的な感じの簡単なお返事がきた。)

 

毎回毎回、こんなふうにあいみつをとって神経をすりへらすのはいやだ。会社の規模的にも、わたしたちの性格的にも、税理士さんやデザイナーさん、印刷会社さんなど、いっしょにはたらく人たちとは一蓮托生で、お互いにベストを尽くします、という信頼関係をベースに進めるほうが、最終的にはプラスなのではないか、という思いがある。これが正しいかどうかはわからない。でもとりあえず、いまは、この方針でいくことに決めた。

 

というわけで、これからずっとお世話になる印刷会社。正式に決定する前に、一度お会いしましょう、ということになり、ふたりで印刷会社に訪れた。社長さんが対応してくれて、社内を案内してくれた。こういう場面では同居人が力を発揮する。わたしにはよくわからない昔の印刷技術の話や、印刷職人のすご技の話などで、社長さんと盛り上がっている。ふたりとも楽しそうなので、この会社に決めてだいじょうぶなんじゃないかな、と思った。

 

その後、契約書をかわし、用紙の選定や装幀の相談、PDF入稿、校正、下版まで、社長さんが面倒をみてくれた。そこから担当の営業さんに引き継ぎとなったけれども、引き継ぎもとてもスムーズで、担当のFさんは納品までに何度も指定場所へ足を運んでくれた。何より嬉しかったのは、少しでも早く見本を見たいだろうから、と言って、三鷹のわたしたちの仕事場まで、納品日の3日前に2冊だけ、見本を届けてくれたこと。あいみつが苦手とか、直接届けてもらって感激とか、なんとまあ、昭和な仕事観、といわれるかもしれない。ただ、わたしはこれまでもこういう価値観で仕事をしてきたのだし、それで大きな失敗をしたこともない。もちろん、大成功したとか大もうけしたとかいう話とはまったく無縁な人生ではあったけれども、そういったことを求めているわけでもないので、当面、こんなふうに進めていくことになるのだと思う。

 

印刷会社が決まったのは、7月末。10月PDF入稿、12月刊行、というざっくりとした日程が決まった。残るは最大の難関、流通を決めなくてはいけない。出版社経営のバイブル、宮後優子さんの本では、いちばん最初に流通をどうするかを決めよ、と書いてあり、宮後さん自身も本の進行を進める前に、流通についてあちこちに相談に行っている。これはヤバい。わたしたちは二人とも、最も苦手というか、経験も知識もない部分。だからこそ、早めに着手しなくてはいけないのに、苦手意識からどうしても後回しになってしまったのだ。でももういよいよタイムリミット。この夏の間に、流通をどうするかを決める。

 

今日はここまで。流通の話はたぶん明日。