版権交渉——じりじりと待つこと二ヶ月。

次に挑むのは、版権交渉、つまり原著の翻訳権取得である。通常の翻訳出版の場合、版権を取得してから翻訳者をさがし、翻訳を依頼して訳出がスタートするのだけれど、『オリンピア』の場合はちょっと事情が違っていた。なにしろ越前さんが原著と出会ったのは20年以上前で、この本を自分の手で翻訳し日本の読者に紹介したいという思いが高じて、なんと全文訳出してしまっていたのだ。翻訳出版できるあてもないのに。

 

というわけで、版権がとれたらすぐに入稿し、本を出すことができるという状態だった。逆に言うと、版権がとれなければ、目の前の本一冊分のプロ中のプロの手による訳文が無駄になってしまう、ということだ。これは、責任重大。版権交渉は前職である程度は経験があるものの、生まれたばかりの出版社を信用してもらえるのかどうか、予算も決して多くはない。不安材料満載での版権交渉がはじまった。

 

前職の経験から、版権交渉については著作権エージェントさんにお願いする、ということは決めていた。エージェントさんの手数料を節約するために、直接交渉するという出版社は規模の大小を問わずある。でも、やっぱり餅は餅屋。英語力の問題はさておいたとしても、素人が無謀に取り組んで失敗するリスク、ああでもないこうでもないと思い悩む精神的負担などを考え合わせると、税理士さん同様、専門家にお願いするのが吉、と考えた。

 

さて、『オリンピア』の版権は国内のどのエージェントが扱っているのだろう。翻訳が一冊でも出ている著者の場合は、まず、その本のコピーライト表示を確認する。そこにあるエージェントにまず連絡をしてみて、該当の書籍の版権交渉を扱っているかどうかをたずねる。日本には最大手のタトル・モリエイジェンシーをはじめ、日本ユニ・エージェンシー、イングリッシュ・エージェンシーなど、いくつか著作権エージェントがあり、それぞれに「扱い」が決まっている。もちろん、とくに「扱い」が決まっていない著者もいて、その場合はどこのエージェントでも扱ってくれる。『オリンピア』の著者、デニス・ボックさんは、『灰の庭』という既訳があり、扱いはイングリッシュ・エージェンシーさんだということがわかった。

 

先に書いたように、この版権は「とれたらいいな」ではなく、「なにがなんでもとらなくてはいけない」。実績も予算もない極小出版社が無事版権を獲得するにはどうしたらよいのか。このときは、『灰の庭』の刊行当時の担当編集者で、いまはフリーで活躍されているTさんに相談にのっていただいた。『灰の庭』のときのエージェントの担当者に連絡をとって、弊社を紹介してくれた。

版権交渉の手順は、概ね以下のとおり。

1)リクエスト(版権のあきの確認)

2)オファー(予定部数・定価・印税率・刊行時期・アドバンス料金・契約年数などの提示)

3)交渉→オファー了承の連絡

4)契約

まずはリクエスト。エージェントさんはすぐに動いてくれたけれども、返事はなかなかこない。25年前に出た本の版権があいてない、ということは普通は考えられないけれど、著者が何かの事情で翻訳出版はしたくないとか、たまたま国内のどこかの出版社が興味をもって版権をとってしまったとか、万一、の可能性はいくらだって考えられる。じりじりと待つこと1ヶ月、ようやく、「あいている」という返事がきた。

 

さあ、次はいよいよオファーだ。アドバンス料は、通常どおりなら、初版部数×予価の6%相当をドルに換算して丸めた金額。折り悪く、どこの出版社も「翻訳出版はちょっと時期が悪い」と二の足をふんでいるほどの円安続きだったため(それは今も続いている)、思い切ってダメ元でだいぶ切り下げた金額でオファーを出した。アドバンス料が折り合わないからといって、いきなり交渉決裂、となるわけではない。先方から、いやいや、それでは安すぎるから、もう少しあげてくださいよ、という連絡がきて、それじゃ、これでどうでしょう、と新たな金額を提示する。または、先方からいくら以下では認めませんよ、と言われて、その金額が出せるか出せないか、出せなければあきらめるしかない、というケースもある。

 

今回は「競合」はなく、一対一の交渉だったけれど、これが『競合」となると、もう少し複雑。二社が同時に同じ作品の版権の取得を希望した場合、お互いの条件(とくにアドンバンス料)を出し合って、端的に言えば好条件のオファーを出したほうが版権を取得する。「同時」といっても多少の時間差はあるので、先にオファーを出したほうが優先権があり、あとから希望を出した会社の条件が自社より上回っていた場合、もう一回だけ、条件を変更してオファーを出すことができる。あとから出した会社の条件が先の会社の条件よりも悪かった場合は、そのまま先にオファーを出した会社に交渉権が与えられる。(もちろんこれはざっくりとした説明で、実際にはアドバンス料だけでなく、各社の営業努力や会社の信用性などが加味されることも多い。いずれもケースバイケースで一筋縄ではいかない。競合の相手はどこだったのかは最後まで明かされることはなく、競合で勝っても負けても、理由をはっきり知らされることはない。かなりもやもやっとした交渉ごとなのだ)

 

オリンピア』のオファーは、Tさんのアドバイスのおかげもあって、無事、一回で通った。このときもじりじりしながら待つこと約一ヶ月。この頃は日に何回もメールをチェックして、まだかまだかとエージェントさんからの連絡を待っていた。オファー了承の報を得てすぐ、まず越前さんに連絡。越前さんからも速攻で返事があって、「今バスの中です。うれしいです」とあった。交渉をはじめてから2ヶ月。だいたい平均的な時間なのではないかと思う。Tさんにも報告のメールを送る。ようやくこれで、『オリンピア』はスタートラインに立った感じだ。次はデザイナーさんと組版会社を決めて、入稿へと進める。今日はここまでとしよう。こんな時間なのに、おなかがすいてきた。