ISBN出版者コードの取得。思い切って、37000円コースだ!

翻訳家の越前敏弥さんからメールの返事が来たのは、わたしがおそるおそるメールを送ってからわずか1時間後のことだった。越前さんと『オリンピア』とわたしの出会いの物語は、12月、1月に企画されているイベントのためにとっておくことにして、ここでは編集請負の仕事しかしていなかった北烏山編集室が、版元(出版社)として本を出すことになり、突然あふれかえった事務作業の実際について、なるべく詳しく記しておこうと思う。

 

ほかの「ひとり出版社」さんたちとわたしたちが異なることのひとつは(「ひとり」じゃなく「ふたり」だということのほかに)、出版活動をはじめるよりだいぶ前にすでに法人格を取得していた、ということだ。ほかの方たちの体験談を拝読すると、会社の登記やら引っ越しやら法人口座開設などなど、法人格取得のための事務仕事と同時進行で、これから書くISBN番号の取得や取次・流通の方法の決定、倉庫の問題などを考えなくてはならず、それに加えて当然ながら、本をつくる作業(原稿整理とかデザイン依頼とかイラスト発注とか、いろいろ……)も同時進行するわけで、しかも1人で!ということで、それは大変に決まっている。その点わたしたちは、なにしろ「ふたり」だし、法人格はもうできていて、本作りの作業はこれまでの経験をいかすことができるわけで、ほかの方たちにくらべるとだいぶ楽だったはず。それでも、本を一冊、ゼロから作って、しかるべきルートで書店に入り、読者の手に届くところまできっちりとミスなく遂行する、というのは、予想以上に大変だった(と、過去形になってるけど、現時点でまだ読者の手に届くところまでいってない!)

 

ともあれ、何はなくてもまずはISBNコード(および書籍JANコード)取得。今回バイブルのように何度も参考にさせてもらった書籍、宮後優子『ひとり出版社入門』にも、ISBN番号取得の手順が詳しく書かれている。『オリンピア』は翻訳書なので、まず原書の版権をとらなくてはならないが、版権交渉の際に国際コードであるISBNコードが必要になる可能性もあると考え、とにかく急いでISBN出版者記号を取得することにした。

 

ISBNコードは、13桁で構成される国際識別番号で、たとえば前職で編集担当した書籍、『世界文学大図鑑』のISBNコードは、978-4-385-16233-1。この385の部分が出版者の固有のコードで、16233-1が、その書籍単体のコードになる……というような知識は、もちろん前職で得ていたけれど、そこは会社人間の哀しいところ。当時はISBNコードの取得やらバーコード作成やらといった作業は別の部署の人たちが迅速にそつなくこなしてくれていた。でも今回は、自分でやらなくちゃいけない。

 

まず、日本図書コード管理センターのウェブサイトにいって、申請手続きを確認する。このウェブサイトはなかなかよくできているので、ここに書かれている手順をしっかりと読んで、そのとおりに進めていけば、まず失敗することはない。注意しなくてはいけないのは、ISBNコードと書籍JANコードというのは別々の組織が管理しているので、それぞれに申し込みと支払いをしなくてはいけない、ということくらいだろうか。(でもそのことも、上記の日本図書コード管理センターのウェブサイトにしっかりと書かれているので心配はいらない)

 

このときおもしろかったのは、ISBN出版者コードを取得する際の料金が、出版可能点数によって異なる、ということだ。シングルコードといって1点だけなら8000円、10点までの7桁コードなら20000円、100点までの6桁コードだと37000円だ。さあ、どうしよう。1点だけでおしまい、ということはないと思ったけれど、10点以上出す? もしかしたら3点くらい出したところでうまくゆかずすごすご撤退という可能性もあるよね……でも、20000円と20万円というならともかく、20000円と37000円。なかなか絶妙な料金設定なのだ。ここはやっぱり、志高く、100点刊行目指して、37000円コースだ! ということで、弊社は6桁コードを申請。しばらくしてから郵送でしずしずと送られてきた出版者記号は、911068 でした。これから先、出版社を続けるかぎり、ずっとおつきあいしていくわたしたちの固有の番号、911068。

 

法人登記のときもそうだったのだけれど、こういう事務作業というのは、難しくはないんだけどとにかく煩雑。このあと、『オリンピア』の書誌情報がかたまったタイミングで、2桁の書籍単体のコードを割り振って、ISBNコードが完成する。図書コード管理センターから送られてきた割り振り表の一番上は、01ではなくて、00。こうして、『オリンピア』のISBNコードが決まった。これから先、奥付やスリップ、ウェブサイトなど、あらゆるところで、この番号を記入・入力することになる。

 

日本図書コードセンターのウェブサイトには、手続き完了まで2週間程度かかる、と書かれている。申請をするとまもなく、図書コードセンターの人から電話がかかってくる。内容確認のため、と書いてあるけど、なんだか人物審査をされているようで、緊張した。でもセンターの人は、実際はとてもやさしく感じよくて、心配は無用だった。時期にもよるのかもしれないが、弊社の場合は登録完了まで、1週間もかからなかったような気がする。

 

さて、次なる業務は版権取得だ。著作権エージェントを介した版権交渉は、前職でも何回もやっていたので、作業としてはあまり不安はなかった。でも、今回の場合、「版権とれたらいいな」というレベルではなく、何がなんでも取得しなくてはいけない。越前さんをがっかりさせるような結果にならないように、即席出版社としては全力を尽くす必要があった。

 

だいぶ疲れてきたので、今日はここまで。おやすみなさい!

 

個人事業主から株式会社設立へ。複合機と税理士は必須。

2021年の夏、会社の早期退職制度が発表になり、私はあまり迷うことなく応募を決めた。退職日直前まで普通に仕事をして、コロナ禍だったこともありお別れ会などもなく、淡々と20年近くつとめた会社を去った。その時点では、フリーで編集の仕事ができたらいいなあと思っていた。会社が用意してくれた再就職相談のオンライン面接も受けて、お約束どおり「自分を見つめて」みたけれど、あまり大きな心境の変化はなく、どんな形でもいいから、編集の仕事を続けたい、と伝えた。

 

2ヶ月ほどのハローワーク通いの時期を経て、2022年1月に個人事業主の登録をした。幸い、前職の2つの部署から仕事の依頼が来た。長いつきあいの編集者から翻訳ノンフィクションの文庫化の仕事が来た。版権エージェントさんの紹介で、コープロの翻訳書編集の仕事が来た。予想以上に忙しく、収入は減ったけれど通勤や人間関係のストレスのない、フリーランスの生活がはじまった。ちょうど同居人も定年退職したので、家の近所の古いアパートの部屋を借りて仕事場にした。6畳間に机をふたつ並べて仕事をする生活は、当初は結構不安だったけど、びっくりするほどうまくいった。別々の仕事をしているからか、隣で仕事をしている人の存在が案外気にならない。仕事は別だけど同業なので、わからないことがあったり、迷ったりするときは、気軽に相談できる。読んでいるゲラにおかしな表現があったり、笑えるミスがあったりしたときは、報告していっしょに笑う。

 

まあこのままでもよかったのだけれど、同じ家に個人事業主が2人いるより、いっそ会社組織にしてもいいのかも、と考えはじめた。このころからいくつか、AかBかの決断を迫られることが続く。個人事業主か、法人か。法人にするなら、合同会社か、株式会社か。共同経営にした場合、どちらが代表になるか。このあたりは税金とか社会保険とかいろんなことを考えなくちゃいけなくて、自分たちの年齢もあり、いろんな人の話をきいて、たくさん本やネットで勉強した。それぞれに長所と短所があり、どちらが正解ということもない。ただなんとなく、株式会社をつくってみたいな、と思った。同居人は「なんちゃって会社」というけれど、なんちゃってだろうがなんだろうが、手続きはそれなりに大変だった。株式会社にしよう、と決めて、いくつかある会社設立サイトを比較。使い慣れているマネーフォワードの会社設立というのに登録した。このサイトの指示どおりに進んでいけば、手順はやや煩雑だけれど、難しくはない。ほとんどひっかかることなく登記へと進み、無事、2022年6月1日、株式会社北烏山編集室がスタート。といっても、仕事の内容が変わるわけではない。編集請負の仕事の報酬を、個人ではなく会社で受け取るようになり、会社からはそれぞれ役員報酬と給与が出る。ざっくり言えばそれだけのことだ。

 

この時期にやってよかったと思っていることが2つあって、ひとつが複合機の導入。会社員時代からそこそこ高性能なプリンターを持っていたのだけれど、scanに時間がかかりすぎるのでもう少し本格的な複合機の導入を検討。月5000円ほどで会社で使っていたのと同程度の性能の複合機がレンタルできることがわかり、即導入した。ありがたいのはメンテナンスで、会社勤め時代よりも対応が早い気がする。昭和な風情のアパートに、礼儀正しく気持ちのいいメンテ担当者がかけつけてくれるのだ。ありがたいことこのうえない。

 

もうひとつは税理士さんをお願いしたこと。会社組織といっても小規模な編集請負会社だから、税務は自分たちでできるかな、と当初は考えていた。でも、二人ともお金の計算はあまり得意ではないし、好きでもない。うんと得をしたいと思っているわけではないけれど、ちゃんと法律や規則は守りながら、損はしたくない。税金や保険のことで気に病む時間と労力を軽減することができるなら、と考えて、顧問税理士さんをお願いすることにした。これもおなじみのマネーフォワードの税理士紹介サイトを使って、複数の税理士さんを紹介してもらい、何人かと面接をして、いちばんぴんときた方にお願いした。いちばん安かったわけではないんだけど、あーこの人は信用できるな、となんとなく思った人を選んだ。のだけれど、これが大正解だった。もちろん、月々の支払いは痛手ではある。でも、経理の苦手なわたしたちにとって、彼は経理担当の社員、みたいな存在で、あれもこれも相談にのってくれる。返事は素早く簡潔。わたしがやらなくちゃいけないのは、原則として日々の会計ソフトの入力だけだ。

 

環境が整ってきたところで、次は会社のTwitterアカウントとHPの設立を。HPはややハードルが高いので、まずは会社員時代から慣れ親しんだTwitterアカウントからはじめた。TwitterとNoteのアカウントをとりあえず取得して、とにかくはじめてみた。このころから、わたしたち二人の仕事の進め方の癖みたいなのがはっきりしてくる。つまり、適当でもいいからやみくもにはじめちゃうのがわたし。それをきっちりと発展させて、継続していくのが同居人。とくにTwitterでは、会社員時代と異なり(いや、いまも会社員ではあるのだが)、誰に気を遣うこともなく伸び伸びと好き勝手なことを書いて楽しそうだ。会社を辞めて人と交流がなくなった分、Twitter での交流が貴重な外部との接点になる。こうして、経理・総務はわたし、Twitterなど広報担当は彼、というふうに、なんとなく分担が決まっていった。

 

会社1年目は、ふたりとも前職からの請負仕事がメイン。ほかに、翻訳書編集のフリー仕事もいくつか入ってきた。企画からかかわってほしいとか、デザインも担当してほしい、といった依頼も増えてきた。同時進行が2冊から3冊になり、4冊、5冊と増えてきて、もう無理だーとなったころに、やっと前職の大きな仕事が終わった。もうしばらく、こういうタイプの仕事はしたくないな、と思った。これからはなるべく、自分で企画して持ち込むか、好きなジャンルの翻訳書か、にしぼって仕事を引き受けよう、と考えた。

 

このころから、自社出版もやってみようかな、と思い始めた。翻訳家の越前さんにおそるおそるメールを送ったのが、2023年の2月。今日はここまで。もう寝なくちゃ。

『憶えている』を読んだから

岡田林太郎『憶えている 40代でがんになったひとり出版社の1908日』(コトニ社)を読んだ。岡田さんはこの本(とたくさんの編集本)を遺して、今年7月に亡くなった。わたしは最愛の妹を30代でがんで亡くしている。岡田さんがひとり出版社を立ち上げた3年後、がんが発覚した2021年に、長年つとめた出版社を退職し、ひとりならぬふたり出版社を立ち上げた。本の造本・装釘をお願いするのは、宗利淳一氏。岡田さんのブログは、独立してから時折読んで、出版社をやっていくときの心構えとか、営業の方法とか、参考にさせていただいていた。情熱をもちながらも落ち着いた、安定感のある出版業とのかかわり方は、わたしたちの考える出版業と重なる部分が多く、とても追いつけないなと思いながら仰ぎ見ていた。

 

岡田さんが亡くなった、というニュースは、まったく面識のない私にも衝撃だった。奇跡の回復をみせてお仕事の復帰されたとうかがっていたので、そのまま奇跡が続くに違いないと勝手に思っていた。それからまもなく、私たちはずいぶん迷っていた流通について、岡田さんのみずき書林さんと同じ、トランスビューさんにお願いすることに決めた。それからしばらくして、同じトランスビューさん扱いのコトニ社さんから、岡田さんのブログが書籍化される、と聞いた。SNSで紹介される書影を見て、ああ、宗利さんだ、気合い入ってるな、と思った。ちょうど同じ頃、わたしたちの最初の書籍、『オリンピア』の装釘をお願いしていた。どちらも白を基調とした、凜とした気品のある装釘で、わたしはどちらもとても素敵だと思う。

 

岡田さんは本書は実用的でないし、闘病記でもない、と言う。でもわたしにとっては、実用書であり、闘病記でもあった。登記からはじまって、流通のことや、宣伝のこと、ずっと編集畑だった人間がいきなり出版社をやることになった不安や興奮を、一足先に体感していた方の生の言葉は、わたしにとってはものすごく実用的だった。そして病を得てからの日々の記録は、最期まで前向きで周囲の人への感謝を忘れなかった妹の闘病を思い出して、30代でこの世を去らなくてはいけなかった妹もまた、不運ではあったけれども不幸ではなかったと、思わせてくれた。

 

実は今、わたしが休眠状態が続いているこのブログを久しぶりに書いているのは、本書からきわめて実用的なアドバイスをもらったからだ。それは、「出版社を立ち上げたばかりの日々のことを記録に残しておいたほうがよい」ということ。私自身、会社を辞めた直後から今まで、ずいぶんたくさんの書籍やブログにお世話になったから、あとからくる誰かのために役に立てば、という気持ちもないわけではない。でもどちらかというと、岡田さんが言うように、自分のために書いておきたい。この「北烏山だより」を書き始めたのはもう20年近く前のことで、当時の上司に反発して爆発しそうになっている若き日々(アラフォーだけど)をなつかしく思い出すよすがになる。

 

というわけで、明日から少しずつ、出版者記号取得から『オリンピア』刊行までの約1年の日々を綴ってみようと思う。また挫折するかもしれないけど、それもまた、ご愛敬。とりあえず書くことのハードルを下げるため、岡田さん同様、書きっぱなしで読み直さない方針でいく。

会社名のこと

昨年の6月1日に、同居人と共同出資して北烏山編集室という株式会社を設立した。社名を軽く考えていたわけではないけれど、あまり凝った洒落た名前にするのは柄に合わない気がして、シンプルに事務所(=自宅)の所在地に「編集室」をくっつけた。すっかり休眠状態だけれどそれなりに愛着のある当ブログと、ツイッターの個人アカウント名に揃えてもいいかな、という気持ちもあった。「なんとか編集室」というのは、この業界での大先達である「藤原編集室」にあやかりたいというのもあった。二人でちょっと話して、うん、それでいいんじゃない、という感じですんなりと決まった。

 

会社としてスタートしてみてわかったのは、北烏山編集室、というのが意外に長くて言いにくい、ということ。仕事の電話や名刺交換の場で、北烏山編集室の〇〇です、というのが気恥ずかしさもあってスムーズに出てこない。でも、コピー機の業者さんやアスクルさんや宅急便やさんなどに繰り返し社名を名乗っているうちにだいぶ慣れてきて、最近では「北烏山編集室と申します」と社名のみで名乗ることすらできるようになってきた。出版社の編集者さんへの電話口でもすらすら言えるようになるまでもう一息、という感じだ。

 

ところが、ところが。今年に入って、いよいよ自社出版に挑戦することにした、という話を前職の元同僚にしたところ、「会社名どうするんですか、まさかこのままじゃないですよね」と言われたのだ。そして、「え、このままだよ、どうして? 変かな?」と聞いたら、「変ですよ、絶対。北烏山編集室、って出版社の名前、ないですよー」と、きっぱりとしたお返事。こういうことには全く自信のない私は、えーでももうISBN出版者コードもとっちゃったし、今更変えられないよーどうしようーと、ちょっと泣きそうになってしょんぼりと帰宅。同居人におそるおそる報告した。

 

同居人は、全然気にすることはない、という。彼は蘊蓄野郎なので、いろいろと変わった出版社の名前をあげて、それがどんな会社かとか、どんな本を出していたとか、教えてくれた。出版社だからってなんとか出版とかなんとか書房とかなんとか社とかなんとか堂とかしなくちゃいけないという決まりはないよね、というのが私たちの統一見解だった。

 

ところが、ところが。今年は久しぶりにお花見をして、出版関係者を含む数人が集まっていた席で、恐る恐るこの社名の話題を出してみた。すると複数の人が、「たしかに、ちょっと変」とおっしゃる。「でも、それがいいんじゃない、ちょっとひっかかる、というところが」「私は好きです、この社名」と補足はしてくれたのだけれど。それで、勇気を出してどこが変なのか、聞いてみた。そうしたら、まず、「烏」が、次に「北」が目に入って、なんだかちょっと、ね、というお返事。そうか、ひっかかっていたのは「編集室」のほうじゃなくて、「北烏山」のほうだったのか、と納得(だけど地名だからどうしようもないよね)。さらに、言葉のリズムやひびきに一家言ある大学教授からは、語呂が悪い、言いにくい、いっそ「北烏山商事」にしたら、などという珍提案も出て、とにかく散々けなされたのだけれど、最後に「でも、ひっかかりがあるほうが、意外に印象に残るということもある」と妙に説得力のある口調で話してくれた編集者のおかげで、「よい社名」である、ということで一件落着。

 

北烏山編集室刊の最初の一冊は、年内刊行を目指して少しずつだけど企画進行中。がんばるぞー。

10年のあいだに

ふと思い出して、2013年の3月のブログを読んだ。「この3月で、苦楽をともにしてきた非常勤の仲間が一斉に職場を去った」とある。そうか、あの年か。あれからもう10年経ったのか。いや、まだ10年?

 

あの時、会社の人事施策で、長期契約の非正規雇用者が能力や功績のいかんにかかわらず、契約を切られた。非正規雇用の人たちのがんばりで支えられているような職場だったから、わたしは猛烈に反発した。とくに、ひとりは編集プロダクション時代からの友人で、私の見る限り誰よりも能力が高く、すぐれた編集者だったし、その年は編集部が修羅場と化す仕事量が予想されていたので、どうしても非正規の方々の力を借りる必要がある。事情をきちんと説明すれば、会社はわかってくれるだろう、と思っていた。ところがこのときは、なぜだか知らないが、会社は頑なだった。折悪く彼女を高く評価していた直属の上司は長期の病気療養中で、加勢してくれる人はだれもいない。当時の部長と会議室で話しながら、私は悔しくて泣いた。もうこれ以上がんばれない。とにかく今年1年はがんばるけれども、そのあとは勤め続けられるかわからない。たぶん19年の会社員生活で、もっとも会社に絶望した日だったと思う。

 

それから10年。あのとき雇い止めにあった彼女は、フリーランス編集者として素晴らしい活躍をしている。あのときの部長はどんどんえらくなって、今や社長だ。翌年、わたしはかねてからの希望の部署に異動になって、それから8年後に会社の早期退職制度に応募して退職して、フリーになり、会社をつくった。先日、「出版事業をはじめようと思っています」と社長に伝えたら、とても喜んでくれて、がんばりなさい、と励ましてくれた。

 

10年のあいだに、ほんとうにいろんなことがあった。四半世紀ぶりにイギリスへの一人旅を決行したのが2015年。はじめてロンドン・ブックフェアを訪れ、ほとんど何もできずにすごすごと帰ってきた。あのときのみじめな気持ちといったら! それからコロナ禍で急遽とりやめた2020年までの5年間、毎年、ブックフェアの時期にロンドンを訪れた。翻訳書の仕事が増えていたこともあり、少しずつブックフェアで商談などもできるようになり、このイギリス旅行は毎年自費で行っていたのでブックフェアの前後にはあちこち観光したり、芝居を見に行ったり。今年はトーキーを訪問しようと宿を予約し、ロンドンでは久しぶりにシェイクスピア劇を観ようとグローブ座のチケットをとり、ブックフェアのチケットも予約して、定例のイギリス旅行を楽しみにしていた2020年、コロナ禍。イギリスはのんびりしていたけれども、日本は保育園が休園になってママさんたちが出社できなくなるというときに、自分だけ旅行を楽しむわけにもいかない、と泣く泣くキャンセル。幸い、グローブ座以外はすべて、無料かわずかな手数料でキャンセルができた。グローブ座のチケットは、ロンドン在住の友人がもらってくれた。その年の秋、一般書編集室がなくなり、異動。翌年、退職。その間ずっと、海外はおろか国内旅行もままならない、ステイホームの日々が続いた。

 

そしてようやく今年、取引先の出版社の方々から、「ブックフェアへ出張」という声が聞こえるようになった。今はちょうど、ボローニャのブックフェアが開催されていて、私がものすごくお世話になったエージェントさんや、今いっしょにお仕事をしている編集者の方が出張に行っているらしい。ボローニャは児童書のフェアだから、今後、ロンドン、フランクフルトと、ますます出張するエージェントさん、編集者さんは増えることだろう。わたしもなんとかして行きたい。今年は無理でも、来年は、必ず。今思うと、会社員生活の最後の数年があんなに楽しくがんばれたのは、年に一度(時には二度)、ロンドンやフランクフルトを訪れていたからだと思う。今思うと会社の正式な出張ではないし、なんの権限もない一編集者がのこのこミーティングに出ていたわけで、ずいぶん図太いというか、図々しい行動だ(社名を名乗ってミーティングに参加することについて会社の許可は得ていた)。そんな突拍子もないことをやってしまうくらい、私にとって、年に一度のロンドン行きが重要だった、とも言える。面倒くさいとか、カッコ悪いとか、体裁を気にすることもなかった。

 

これからの10年は、どんなふうになるのだろう。編集請負の仕事はとても順調で、このままでなんの問題もない。なぜ出版事業を始めようとしているのか、という問いに、明確には答えられない。なんか、おもしろそうだから。というくらいのものだ。どんな本を出していくか、という問いにも、正直にいえば、自分がおもしろいと思う本、というくらいの答えしかない。常識や体裁を気にせずにブックフェアに突進したときのように、おもしろそうだなと思うことに、ふらふらーと近寄っているだけなのかもしれない。まあ、考えてみればこれまでも、そんなふうに生きてきたような気もするな。

 

 

ふたり出版社をつくる

ほぼ1年がかりでやっていた前職の請負仕事が終わり、しばらくぼんやりしていた。退職してからずっと途切れることなく、前職のふたつの編集部から仕事を請け負っていた。どちらも苦楽をともにした仲間からの依頼だし、企画段階で多少なりともかかわった仕事だったので、在職時同様、もしかしたら在職時以上にがんばって作業をしてきた。いろいろ大変なこともあったけれど、すべて終わった今、大きな充実感と安堵感、少しだけ寂しいような気持ちに包まれている。

ありがたいことに退職後すぐ、前職以外の複数の版元さんからも声をかけていただき、いくつか編集の仕事のお手伝いをしてきた。そのうちのいくつかは本になって世の中に出ていき、今も進行中の本も何冊もある。どれも独立したからこそ受けられるような、自分の興味関心ど真ん中の仕事ばかりで、退屈だな、とか、面倒だな、とか感じたことがほとんどない。嫌な思いをしたことも、ほとんどない。(全くない、というわけではないけれど)

昨年の1月に個人事業主の届けを出して本格的に編集の請負仕事をはじめ、昨年の6月に同居人とふたりで編集プロダクションを設立した。個人事業主2名で活動するより、編集者2名で運営する株式会社にしたほうが、なにかと都合がいいかな、という気持ちが半分、あと半分は、ゆくゆくは出版社としての活動もしてみたい、という思惑があったからだ。

編集の請負仕事はそれぞれの前職の会社のほか、複数の版元さんとそれぞれ個別に仕事をしているので、時々相談したり、ピンチの時は単純作業を手伝ったりはしているけれど、個人事業主が2名所属している、という感じで、実は在職時と仕事の内容や毎日の生活はたいして変化がないような気もする。原稿を読んだり、指定をしたり、著者校正をしたり、ゲラに赤字を入れたり、索引をつくったり……。本(企画)ごとに本の内容はもちろん作業内容もいっしょに仕事をする相手も毎回違っているから、退屈することはないし、基本、自分で積極的に受けた仕事なので、これが楽しくないはずはない。複数の企画が重なってくるとややパニックになるけれど、それでも長年の編集の修羅場をくぐりぬけてきたノウハウがあるので、二人ともうわああああ、とか言いながら、たいていのことは乗り切っていける。(今日は同居人が、うわあああ、とか言いながら仕事場に自転車で向かっていった)

というわけで二人とも複数の請負仕事が現在進行形で、そこそこ忙しい。にもかかわらず、わたしたちはやっぱり、出版社としての活動に挑戦してみたい、と思っている。正直なことを言えば、なぜ出版活動をやってみたいのか、わたしは自分の気持ちがよくわからない。ひとり出版社の人たちの書いた本やウェブ記事などを読んでいると、ほとんどの人が高邁な理想や志があって、若く情熱とセンスにあふれているように思える。世の中にはおもしろそうな本があふれかえっていて、昨今は新しい出版社もどんどんできていて、ここへ自分たちが付け加えられることなんて、何もないんじゃないか、と思う日もある。いやいや、自分は編集者としてたいしたものにはなれなかったけれど、同居人のもっている知見やノウハウはやっぱり貴重なんじゃないか、それを埋もれさせるのはもったいないんじゃないか、と、他力本願ぎみになる日もある。

いろいろ考えていると、どうもわたしは出版活動をやることで、いろんな人とつながりをもって、いっしょにわいわいやりたいだけなんじゃないか、という気がしてきた。もちろん請負仕事でも、版元の担当者さんや著訳者、場合によってはデザイナーさんや校正者さんなどとも、「いっしょにお仕事をしている感」はある。でもやっぱり、企画から編集、宣伝、販売まで、全部自分たちでやる、となると、人とかかわる機会も密度もぐんと増える。それだけ気苦労も増えるだろうけれど、それを補ってあまりある楽しさ、おもしろさがある、と思っていて、そういう「人」に対する好奇心のようなものは、どうやら歳をとっても衰えることがないみたいだ。

このように考えているのはもちろんわたしひとりで、同居人がどんな気持ちでいるのかは正確にはわからない。言葉にしていることがすべてというわけではないと思うから、本当のところはわからない。でもまあ、出版社をやってみよう、というところでは一致していたので、ものすごーく大変だったり、身の程知らずにお金がかかったり、ということがなければ、やってみようかねえ、という感じ。

というわけで、いよいよISBN出版者コード取得の手続きに入ってみようと思っている。どんな本を出していくのか、という一番大事なことは、毎日少しずつふたりで話していて、それはそれでとても楽しい。HPも作りたい、インデザインも使えるようになりたい、と、夢は広がるけれど、実力と資力をかんがみて、自分たちにできることを地道に無理なくやっていこう。

なお、今のわたしのバイブルは、宮後優子『ひとり出版入門』。この本のいいところは、いろいろあるんだけど、何よりまず、懐が深いこと。出版業のよいところは、同業他社が必ずしもライバルにはならないところなので、そんなこともあるのかもしれないけれど、宮後さんのこの本を読んでいると、ライバルを出し抜こうというような姿勢は皆無で、みんなで出版界もりあげていきましょう!というオーラが出ていて好感がもてる。それから「はじめに」にあるように、「『この本を読んだら明日から出版社が始められる!』と、みなさんの背中を無責任に押すのではなく、むしろ『始める前によく考えて!』という願いをこめました。」という姿勢で書かれていること。そして何より、これだけ具体的に記述されているにもかかわらず、別にこれが絶対無二のやり方ってわけじゃないですよ、というオーラを随所で発しているところは素晴らしい。巻末に複数のひとり出版社の方々へのアンケートも掲載されていて、今わたしが知りたいこと、動き出すために必要な情報や考え方、心のもちようが、かなり網羅されている。なので今はこの本にどーんと乗っかり、ふたり出版社のはじめの一歩を歩き出そうと思う(ISBN出版者コード取得の方法も、当然丁寧に解説されている)。

 

 

 

 

 

2022年読了本ベスト5

ものすごく久しぶりに、読了本ベスト5をアップしようと思う。今年はいつもよりたくさん本を読んだ、というわけでもないのだけれど、読んだ本は大部分が「当たり」だったという幸運な年。そんな中でも何冊か、「マイ・オールタイム・ベスト」になりそうな本と出会えた。そんな中から厳選した5冊。順不同。

 

1 川本直『ジュリアン・バトラー真実の生涯』

『ジュリアン・バトラー』は青春小説であり恋愛小説であり中高年小説の傑作だと思いました。私自身が中高年ですので、二人が少しずつ老いていく描写が切なく、いちばん感動して読みました。小説(フィクション)を読む醍醐味を味わわせてくれた、自分にとって大切な本です。(読了時のツイッターより)

 

2 奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』

奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』というエッセイ集。文章が美しくて、人物が生き生きと描かれていて、自分もその場にいたんじゃないかと思うようなリアリティがある。わたしはエレーナ先生が大好きになり、わたしももう一度語学を真剣に勉強してみたい、という気になり、そして自分が年をとりすぎていることを思い出して少しだけがっかりする。(読み始めたときのブログ投稿より)

 

3 ウィリアムズ『小さなことばたちの辞書』(最所篤子訳)

読了。深夜、ラスト数十ページは寝ている同居人を起こさないように必死で嗚咽をこらえながら読んだ。この小説は私に読まれるためにやってきた、と久しぶりに、本当に久しぶりに思った。関係者全員にお礼を言ってまわりたいくらいだ。とりあえず、勝手に「同志」だと思っている訳者に、賞賛と拍手を。(読了時のツイッターより)

 

4 日暮雅通シャーロック・ホームズ・バイブル』

最後まで読んでみてわかるのは、著者が膨大な知識をただ垂れ流しすにではなく、かなり意識的に整理・構成して、周到に章立てを決め、「バイブル」=基本図書を書こうとしたのだろうということ。そういう意味ではかなり計算された「バイブル」であるのは間違いない。だけれども、その計算の背後にあるのが、ホームズ物語とシャーロッキアンの世界への深ーく広ーい愛!だからこそ、ごくたまに、計算から外れて、著者自身の意見(時に批判)が表明されている箇所があると、「おお、ちょっとムキになってる!」という感じがして、なんだかほっこりするのだ。(読了時のツイッターより)

 

5 山本文緒無人島のふたり』

先日、山本文緒無人島のふたり』を読了。同じ病気で同じような経緯で世を去った妹のことを否が応でも思い出してしまう。妹も病気が見つかったときはすでにステージ4だった。(中略)大きなことも、小さなことも、あとで読み返したり、思い出したりできるように。山本さんが『無人島のふたり』(ああ、なんていいタイトルなんだろう)を書き残したように。(読了時のブログより)

 

以上5冊!

読書体験としては、なんと恵まれた、幸福な一年だったことか。こうやって自分の過去のツイッターやブログ記事をうつしていると、大きな感動や興奮を伝えるのに自分の言葉があまりに拙く、情けなくなってくる。まあそれでも、自分の言葉で感想を記しておくことが大事かな、と思っているので、とりあえずこれからもブログやツイッターを書いていこう。細々とでも。

 

というわけで、かなーりさぼり気味のブログ「北烏山だより」ですが、来年こそはもう少し更新を! 読んでくださった方、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。