『無人島のふたり』読了 妹のこととYちゃんのこと

先日、山本文緒無人島のふたり』を読了。同じ病気で同じような経緯で世を去った妹のことを否が応でも思い出してしまう。妹も病気が見つかったときはすでにステージ4だった。山本さんと同様、それまで体に悪いようなことは何もしていないし、定期健康診断も受けて、二人目の子供を妊娠中の幸せ真っ只中のことだった。

 

山本さんは「突然死ぬのは私じゃない。私は、友人知人、夫や家族、全部看取って死ぬのかと思っていた」と書いている。これはほんとうにそうで、健康そのものでふっくら体型の妹は、直前にパラグライダーから墜落するという事故に遭ったにもかかわらず大事に至らなかったので、なんなら自分は不死身だ、くらいに思っていたんじゃないか。私もいま、漠然と将来のことを考えて、自分が同居人より先に逝く、というのはあまり想定していないように思う。もしそうなったら、この人をひとり残すことになったら、大変だなあ、かわいそうだなあ、と思う。山本さんは体調のよいある日、夫とお気に入りのカフェに行き、「葬儀のことはどんなふうに考えているの?」とたずねる。「案の定涙ぐむ夫。」とある。それから、夫が自分で作ったグラタンをひっくり返してしまって呆然とし、泣き出してしまったというエピソード。いま思い出しても切なくて、悲しくて、涙が出てしまう。

 

妹は少なくとも私の前では模範的な患者だった。ステージ4と告げられても「私は死ぬ気がしないの」と言って、つらい抗がん剤治療に挑んでいた。休職の手続きをし、きっちりと後輩の男性に引き継ぎをして、「絶対戻ってくるから」と笑顔で言ったら、後輩のほうが滂沱の涙だったという。入院中は「会いたい人はみんな呼ぶんだ」と言って連絡をしまくったから、見舞客がたえず、いつも賑やかだった。旦那さんの希望もあって、最期は自宅でなくなったのだけれど、かなり具合が悪くなってからも、あまり愚痴も言わず、取り乱すこともなかった。私との最後の会話は、亡くなる数日前に、見舞いから帰る私の背中に「おねえちゃん、ありがとうね」と言った。それはたぶん、今日きてくれてありがとう、というだけではなくて、今までのいろんなことに言っているような気がして、私は妹のマンションの廊下に出てから号泣した。翌日だったか、その次に見舞いに行ったときはもう意識がなくて、言葉をかわすことはできず、そのまま旦那さんと私と旦那さんのお母さんの見守る中で息をひきとった。

 

そんな模範患者だった妹が、一度だけ、過剰に見えるほど激昂して、病院にクレームをつけたことがある。入院して1ヶ月か2ヶ月くらい経ったころだっただろうか。担当の看護師さんの一言がどうしてもゆるせない、その人の顔も見たくないから、担当を変えてほしい、という。その一言というのが、「Eさん(妹の苗字)は、家庭裁判所調査官だったんですってね」だ。

 

若い看護師さんからすると、何がいけなかったのか、すぐにはわからなかったかもしれない。妹は、「だった」という過去形に反応したのだった。妹は仕事を辞めたわけではなく、「休職中」なのだ、それなのに、「だった」とは何事だ、まるでもう、自分には復職の見込みがないという前提だと言わんばかりじゃないか、と怒った。それは尋常ではない怒り方で、実家の母などはあまりぴんときていなかったようだけれど、妹の旦那さんと私は、妹がなぜそんなに怒っているのかが痛いほどわかり、ほんとうは泣きそうだったけどそしらぬふりで「ほんとひどいね、サイテーの看護婦!」などといっしょにぷんぷんしてみせたのだった。(妹はその後も復職したときのためにと語学の勉強を始めたり、車椅子生活が決まった際にも「車椅子の家庭裁判所調査官ってかっこよくない?」などと気丈にふるまっていた。すごすぎる。)

 

妹が高校生の頃、私は同じ高校のテニス部のコーチをしていた。そのときの教え子で妹と同学年の子が、数年前にやはり癌でなくなった。Yちゃんが闘病しているらしい、という話を同期の子から聞いた。お見舞いに行きたいと思ったけれど、時期をみているうちにその日がきてしまった。Yちゃんはすらりと背が高く、やさしくはにかんだ笑顔が印象的な可愛らしい高校生だったけれど、実はチームメイトの誰よりも負けん気が強く、プライドも高かったのではないかと思う。ほかの同期の前衛3人が華々しい戦績だったのに対し、Yちゃんはテニスの実力はだいぶ落ちる、というか、ほとんど初心者というくらいのレベルだった。それでも毎日欠かさず練習に参加し、ともに泣いたり笑ったりの日々を過ごした。ところが2年生になってから、彼女は腰を痛めてしまい、通常の練習プログラムをこなせなくなる。夏の合宿ではほとんど練習に参加することができず、2学期に入ってテニス部を辞めたい、と言ってきた。

 

私はびっくりして、もう一人の大学生コーチといっしょにYちゃんの家に行った。腰は辛抱強く治せばいい、いつか必ず復帰できると信じて、できることをやっていこう、と話したら、彼女はハラハラと泣き出した。「先輩がそう言ってくれるなら」と言って、なぜテニス部を辞めようと思ったかを話してくれた。夏合宿の際、年配のOBから、「マネージャーになるとか、みんなをサポートするような形でテニス部を続けるという道もある」というような言葉をかけられたのがショックだったのだという。自分はもう、選手としてはいらないと思われているんだ、と感じたらしい。「私はYちゃんにマネージャーになってほしいなんて思ったことは一度もないよ」と言ってその日は結論を出さずに帰った。Yちゃんは結局、引退まで選手としてテニス部を続けた。たしか一勝もできなかったと思うけれど、引退したときは最高の笑顔だった。

 

妹のことも、Yちゃんのことも、今はもうこの世にいなくて、こういう昔話について詳細を確認しようと思っても、もう確認できない。だからもしかしたら私の思い込みや記憶違いがあるかもしれなくて、もしかしたら私の作り話かもしれなくて、でもだれもそれを訂正してはくれない(いや、そのときいっしょにいた人は訂正できるのか、妹の旦那とか、いっしょにYちゃん宅に行ったコーチ←誰だったか思い出せない。R先輩かA子かK先輩のだれかだ、とか)。だからこそ、できるだけいろんなことを、書き残しておこう。大きなことも、小さなことも、あとで読み返したり、思い出したりできるように。山本さんが『無人島のふたり』(ああ、なんていいタイトルなんだろう)を書き残したように。

 

 

 

10ヶ月ぶりの投稿

11月は誕生月ということもあり、自分の越し方行く末について思いを巡らすことが多い。先週はフリーランス仲間の女性と、高校時代からの親友、二人の同世代女性と会食の機会があったせいか(そして二人がそれぞれに自分の人生を切り開こうとしているということもあり)、今日はバースデー割引で入った都内の温浴施設でまったりしながら、これからのことをああでもないこうでもないと、ひとり考えていた。

 

設立した会社はいわゆる「ひとり出版社」ではない。「ふたり編集プロダクション」、つまり、出版社からの依頼で編集作業全般を請け負うフリーランス編集者がふたり所属している株式会社だ。だから基本的には、共同経営者の同居人は同居人で、私は私で、それぞれの前職での経験や人とのつながりをいかして、それぞれで仕事をしている。会社のツイッターアカウントは彼がたくさん投稿をしてくれて、おかげでフォロワー数もだいぶ増えている。だからといってそこから仕事が入ってくるなんてことは、まあ、ほとんどない。

 

だから仕事の内容は、実は在職時とあまり変わらない。ただ、気が進まない仕事は受けないので、どの仕事もそれなりに楽しさを見出すことができるし、前職の会社では手がけることが難しい(または難しくなってしまった)ジャンルの本の編集にかかわることができることもあってそれはなかなか魅力的。時間・コストの管理や人間関係のストレスはないし、そういう意味では最高の職業生活で、自分にはこのスタイルが向いているような気はしている。

 

ただ、このままでいいのか、というと、どうなのかなーとも思う。ありがたいことに来年もいくつか、編集のお仕事をいただいていて、多くが企画段階からかかわっているので、今後の展開が楽しみではある。でも、いずれも前職のつながりをいかした著者の本なので、来年はあっても、再来年はあるかな、3年後まで続けられるかな、と思うと、どうかな、と思ったりもするのだ。

 

こんなふうに思うのは、目の前で同居人が、仕事につながるかどうかとか関係なく、どんどん新しい著者の本を読み、映画をみたり、ツイッターで追いかけたりしている姿を見ているから。彼は定年退職なので、3年後、5年後に仕事がなくなったらどうしよう、とかはあまり考えていなくて、なくなったら仕事場たためばいいよね、くらいにしか思っていないっぽい。だけど、別に「著者の開拓」とかじゃなく、この本おもしろいよ、と今自分が読書中の本の内容を嬉しそうに話して聞かせてくれる(時々うるさいと思うくらいに)。

 

今日読み終わった本、日暮雅通シャーロック・ホームズ・バイブル』は、これと同じ思想というか、スタイルで書かれている、と思った。この本はもちろん商業出版として世に出ているわけだけど、日暮さんはきっぱりと、「シャーロッキアンに野心や功名心は無縁だ」と書いている。たしかに、それで利益を得ようとか、儲けようとか、何か実利的な目的を持ち込んでしまったら、もうその活動そのものを楽しめなくなるような気がする。

 

 

同居人と私とでは、編集の仕事のキャリアも、仕事の仕方も全然違っている。そもそも30年以上前にアルバイトで入った会社で同居人の仕事ぶりや読書量を見て、私は編集者になる夢をあきらめたくらいだから、スタートからして全然違うのだ。その後も私はあらゆる面でぐちゃぐちゃの人生を歩んできたけれど、彼はまっすぐにひとつの会社で専門知識を積み上げ、その傍ら淡々と好きな本を読み、感想を書く、という生活を続けてきた。それはもう、違っていて当然だし、いまさら真似をしようとか、追いつこうとか考えているわけではない。ただ、こういうすごい編集者を共同経営者として会社をたちあげてしまった場合、自分はどんなふうに仕事をしていけばいいのか、自分には何ができるのか、青臭いと言われるかもしれないけれども、考えなくちゃいけないなあと思っている。

 

そんな中で、ちょっとだけヒントのように思ったのは、先述のフリーランス仲間から「ブログをはじめた」という話を聞き、高校時代の親友から「北烏山だより、やめちゃったの? 面白かったのに」と言われたこと。そうだなあ、たしかにこのブログは、別に仕事につなげようとか「発信の場」とか考えず、自分が読んだ本の感想とか、講演会の内容とか、だらだら書き綴っていただけだけど、ずいぶん経ってから読み返すと、結構面白かったりする。お、我ながらよくかけてるじゃん、みたいな。というわけで、ちょっと初心?にかえって、会社の仕事とは関係なく、「野心や功名心とは無縁」なブログを、もう少し書いてみようかな。(しかしここ数年、何度もこの決意をして、そのたびに挫折しているのだけれども)

 

二冊読了

圧倒的な迫力のある本を二冊読了した。安易に「面白かった!」などという感想は書けない、魂の叫びのような著作。共通するのは「できごとや思いを文章にする」ことに対する、著者の不器用なまでのひたむきさ、誠実さだ。

 

わたしが自分の好みで本を選ぶ場合、そのほとんどがフィクション、小説だ。海外のものも国内のものも、文学もミステリなどのジャンル・フィクションも、わりと手当たり次第、おもしろそうだと思ったものをどんどん読む。あれ、はずれた、と思うこともないわけではないけれど、たいていはのめりこんで一気に読める。

 

一方、ノンフィクションに対してはやや保守的。自分で選ぶというよりは、信頼している人が面白いと言ったとか、書評を読んで興味を持ったとか、何かのきっかけで手にとることが多い。『私の脳で起こったこと』は、最近会員になったALL REVIEWSのメルマガで紹介されていたのを読んで買って、一日で一気に読んだ。『当事者は嘘をつく』は、先ほど読み終わった。この本との出会いは、少し複雑だ。

 

『当事者は嘘をつく』の著者の書いていたブログを、熱心に読んでいた時期がある。同居人も読んでいて、著者のことを我が家では「きりんさん」と勝手に呼んでいた。文面から察するにまだ20代なのに、おそろしく思索が深く、文章がうまい。それにくらべて、自分が垂れ流している身辺雑記はなんでこんなにくだらないんだ、というような気持ちになったのと、あまりに繊細すぎる文章と、次第に学問的になっていく内容についていけなくなったということで、あまり読まなくなってしまった。自分自身がブログをほとんど書かなくなってしまったということも大きい。

 

それがつい先日、ツイッターでこの本についての書き込みを見かけて、「あれっ」と思った。同居人に、「これ、きりんさんじゃない?」と言ったら、同居人はどれどれ、と言って検索し、まえがきの抜粋を読んで、さかんに感心していた。で、気づいたら翌日には、我が家のリビングのテーブルにこの本が置いてあった、というわけだ。

 

二冊とも、すごい本だった。と同時に、最初に書いたように、安易な感想を拒絶するテーマであり、内容なので、内容についての感想めいたことはわたしにはうまく書けない。ひとつだけ言いたいのは、「どちらも、ぜひ、最後まで読んでほしい」ということだ。前述のように、わたしや同居人だって、書評や宣伝の一部抜粋がきっかけでこの本を手にしたのだから、もちろんある程度の魅力は一部だけ読んでも伝わるにちがいない。でもこの本は、たとえばせっかく手にしたのに、まえがきだけとか、一章だけ読んで、(私が小説で時々やるみたいに)合わないな、とか、つまらない、とかで、途中でやめてしまってはいけない種類の本なのだと思う。時折つらくなって読めなくなったり、立ち上がって紅茶を入れて気合を入れ直したりしながら、最後まで読んで本を閉じたときの感動というか、うーん、「感動」ってなんか安っぽいよなあ、「読みました!」というか、「受け取りました!」という感覚は、なにものにもかえがたい体験だった。

 

昨日の夜は同居人と二人で、歌人の上坂あゆ美さんの歌集『老人ホームで死ぬほどモテたい』の刊行記念オンラインイベントを視聴。これもとてもいいイベントだった。聞き手の若い書評家さんもとてもよくて、同居人と二人で、自分の年齢の半分くらいの人たちの話に聴き入り、いいイベントだったね、と言い合い、少しだけ、自分たちはだいぶ年をとってしまったね、と寂しいような気持ちになったのだった。

 

 

でもね、本を読む習慣があるということは、ほんとうに幸せなことだよ。わずか数千円で、上記三冊に描かれた世界を体験できるのだから。(図書館を使えば無料で!)この間、ほかにも何冊か、フィクションを読んだのだけれど、その感想は、また後日。(そういえば、今気づいたのだけれど、上記の二冊はどちらも筑摩書房なんだね。さすがだ。)

 

レーニングはここ3日ほど、サボってしまった。明日は何がなんでもジムに行かないと、またいつものずるずる行かないパターンに陥ってしまう。。。

 

翻訳家になりたかった頃

翻訳家の中田耕治先生がなくなった。岸本さんのツイートを読んだら泣きそうになってしまった。「20点!」「お嬢様のチマチマ訳!」「討ち死に!」どの言葉もものすごくリアルで、中田先生の声でわたしの耳に届いた。

 

今や大翻訳家の岸本さんといっしょに語るのはおこがましいのだけれど、実はわたしも30年以上前、中田先生の翻訳教室に通っていたことがある。丸の内の大手商社でお茶汲みOLをやっていた20代前半のことだ。仕事も恋愛も迷ってばかりのぐちゃぐちゃで、今となってはいろんなことの順番が正しく思い出せない。でもとにかく、このままお茶汲みOL→寿退社で専業主婦、という道をたどっていいのか、と思い始めて、翻訳の勉強をしよう、と思ったのだった。

 

でも当時はあまりお金がなくて、まずは通信教育に申し込んだ。よく新聞に大きな広告を出していた、「バベルの通信教育」だ。何度か課題を出すうちに、成績優秀者のリストの常連になったので、もう少し本格的に勉強しようと、「サマーセミナー」を受けてみた。サマーセミナーはレベルが分かれていないので、初心者でも中田先生の授業が受けられる。(通信教育で一定の成績をおさめていれば受けられる、だったかもしれない。よく覚えてない)ほかにも複数のセミナーをとって、とくに面白かったのが、中田先生の「英米小説」と、沢田博先生の「ジャーナリズム翻訳」だった。

 

サマーセミナーの受講生には、当然ながら通年コースへのお誘いがくる。通年コースの中田教室は、ものすごく厳しくて本気の受講生しかいない、という評判を聞いていた。それなのに無謀にも、中田教室に申し込んでしまったのは、サマーセミナーの授業がほんとうに面白かったから。課題を出さずに聞いてるだけでもいいんじゃないか、という不届きな考えで申し込み、入学後の半年くらいの間、一度も課題を出さず、教室の一番後ろの席に座って、黙って先生の講義を聞いていた。20人くらいのクラスで、評判どおり本気の人ばかりが集まっている、という印象だった。授業前や休憩時間や授業後も、みんな翻訳や本の話をしていた。

 

そんなある日、授業が終わったときに、中田先生から名指しで呼ばれた。一度も課題を出していない、にもかかわらず、毎回出席している生徒はたぶん私だけだったから、ついに叱られるのだ。一番後ろの席からおそるおそる教卓へ向かった。中田先生は、いつもの厳しい口調ではなく、とてもやさしく、どうして課題を出さないのかとたずねた。わたしはもごもごと言い訳を言ったと思う。そうしたら先生は、「全部は無理だったら、少しでもいいから、一文でもいいから、課題は出しなさい。それでも僕はちゃんと見てあげるから」というようなことをおっしゃった。わたしは泣きそうになって(よく覚えていないけど、もしかしたらほんとうに泣いたかもしれない)、すみません、すみません、と謝って、その次の週から授業に出られなくなってしまった。20代前半のわたしの情けない翻訳学習事始め。

 

それから会社を辞めたり留学したり結婚したり離婚したり国語の先生になったりといろんなことがあった。その間の引越し回数なんと8回。葉山の高台の中学校の国語教師になって2年目、ふと思い立って翻訳学校の門戸をたたいた。中田先生のところには、あまりに恥ずかしいからもう戻れない(もちろん、先方は覚えていないだろうけれど)。当時は複数の翻訳学校があって、それぞれ個性的だった。なんとなく、大手ではなく小さいところがいいかなと思い、「寺子屋」をうたっている翻訳学校のパンフレットを取り寄せた。なんと、あのサマーセミナーで好印象だったもう一人の講師、沢田博先生が校長をつとめているという。

 

パンフレットに書かれた電話番号に電話をしたら、男の人が出た。いろいろ質問したけど、なんだか不思議な対応で、勧誘などする気はまったくない。商売っ気が皆無なのだ。「まあ、きてみて、合わなかったらやめればいいんじゃない?」とかいい加減なことこのうえない。そしてこの口調、今ならわかる、この電話に出た人こそ、沢田博先生その人だった。(その後の私の人生で、何度か沢田先生に相談をしてきたけれど、先生の答えはいつも、こういう感じだったなあ、そういえば。)

 

こうして私はこの今はなき翻訳学校ユニカレッジに入学、それから7年、翻訳の勉強に励んだ。山本光伸先生の基礎科1年、宮脇孝雄先生の本科2年、池央耿先生の研究室4年。本科のときに児童書でデビューしたけど、池研究室ではほんとうに劣等生で、岸本さんが書いていらしたように、授業のあと、泣きながら駅までの道を歩いた。

 

卒業後も3年くらい、いろいろなアルバイトをしながら翻訳の仕事を続けた。ユニカレッジに入学してから10年くらいの間、人生の最優先事項は「翻訳家になる」だった。この間も波乱万丈は変わらず、引越し回数は7回。38歳で就職するまで、なんとか翻訳で食べていけるようになりたいと模索していた。

 

出版社の正社員採用というまたとない幸運に恵まれたとき、沢田さんに相談したら、「3年やってみて、いやになったら戻ってくれば」と言われた。そうか、3年か。ちょうど4年目くらいの頃、会社で思うような仕事ができず、今ならまた翻訳の仕事に戻れるかもしれない、と思ったことがある。でも、もう3年以上、英語を読んでいないのだ。そこで、自分を試すような気持ちで、リーディングの仕事をもらいに行った。以前は2週間で1本仕上げていたけれど、久しぶりなので念のため1ヶ月の期間をもらい、これをきちんと仕上げることができたら、会社をやめて翻訳家復帰を真剣に検討する。だめだったら、復帰は諦めて会社勤めをがんばる。

 

結果は、後者だった。1ヶ月かけても、リーディングを1冊仕上げることができなかったのだ。もちろん、仕事が猛烈に忙しかったということはある。でもそんなことは言い訳にはならない。翻訳をやりたい、という気持ちが、やっぱり足りなかったのだ。以前、某有名翻訳家が、「翻訳家になりたいというのと、翻訳の仕事をしたいというのは、少し違うのかもしれないね」と言っていた。今ならわかるのだけれど、私は20代の頃からずっと、翻訳家になりたかったのだ。翻訳の仕事が好きだったわけじゃなく、私の目の前にいた、中田耕治や沢田博や山本光伸や宮脇孝雄や池央耿に憧れて、彼らのようになりたかった。

 

今、わたしの頭の中に、なぜか高校時代の同期の男子の声で、「ちょれえー」と囃し立てる言葉が響いている。ほんとうに、まったく、情けないけど、わたしはちょろい。でもまあ、いいじゃないか。ちょろいなりに10年努力して、憧れの人たちの間をうろついて、同じ空気を吸って、そうこうするうちにこうして、曲がりなりにもその人たちといっしょにお仕事ができるようになったのだから。

 

最後に岸本さんにならって、翻訳修行中に先生方に言われたお叱りの言葉を記しておこう。

池先生「美文麗文は不要です」

山本先生「ま、いいかというあなたの声が聞こえてくるような訳文です」

沢田先生(研究室進級試験に落ちたとき)「まだ落ち込むほどのところまで来ていないでしょう」

皆さん、厳しいなー。でも、今思うと、愛情あふれる厳しさだった。ありがたいことだ。

 

今日は午前中は翻訳書の仕事、午後は国語の学習参考書の仕事。フリーになってから、自分でやりたいと思った仕事しか受けていないので、ストレスはほとんどない。体調もすこぶるいい。年収が激減することに不安はあるけど、まあ、なんとかなるだろう。しっちゃかめっちゃかだった20代、30代を思えば、現在の生活のなんと安定していることか。

 

今日は筋トレとストレッチを1時間15分。ほぼ毎日運動しているのに痩せない。トレーナーさんに相談したら、睡眠の量と質も大事、と言われた。ので、今日は早く寝ようと思った。のに、もう2時半だ。寝る。

 

 

 

 

心穏やかに暮らしたい

ぼんやりとツイッターをながめていたら、心がざわざわする書き込みにぶつかってしまった。一昨年の夏の悪夢がよみがえり、軽いめまいと吐き気に襲われた。あのときなぜあんなに辛かったかというと、自分の不勉強と不注意のせいで、大勢の人に迷惑をかけてしまうと思ったからだ。結果的に炎は1週間程度でおさまり、関係者が仕事を奪われたり、自分を含め誰かが処分されたり、ということはなかった。売り上げが期待していたほど伸びなかったとも思うけれど、内容をきちんと評価してくれる方も多くいて、シリーズとして安定した売り上げに落ち着いたのではないかと思う。

 

でも私の中には、同じような話題の議論に触れると、上述のような肉体的反応が起きるようになってしまった。これは私ひとりの問題で、もはや会社も当該の書籍も関係ない。自衛するためにツイッターのフォローを整理して、激しい言葉で人を批判したり揶揄したりする人のフォローや、そういったツイートをリツイートする人のフォローをそっと外した。事件から1年以上が過ぎ、会社もやめて、もうそろそろだいじょうぶかな、と思っていた矢先の今日だった。あ、まだだめかな、と思った。

 

若い頃は、辛いことや苦しいことから「逃げるな」と教わった。でもだんだん年をとってきて、負けん気の強さもあやしくなってきたので、最近は、逃げられるときは逃げよう、と思っている。SNSではなるべく趣味の楽しい記事を拾って読むようにして、あまりお金をかけずに、楽しいことをして過ごす。なるべく自分が楽しいと思える仕事を選び、気持ちよくつきあえる人と仕事をする。同居人に、「毎日楽しそうだねえ」と半ば呆れるように言われたけれど、そうなるように、自分なりに努力というか、工夫をしているのだよ。

 

どんなに忙しくても、週に1日はオフにする、というのも、その工夫のひとつ。で、今日はそのオフ日だったので、都内の温浴施設に長時間滞在。読みかけの本を読了。オフの日のジム通いをどうするか、現在検討中なのだけれど、今日はとりあえず休んでみた。なんとなく、後ろめたいような気持ちになっている。明日は仕事で終日外出。そろそろ寝る。

 

 

表現規制のこと、を書こうとしてやめた

できるだけ毎日ブログを書こうと思っているのだけれど、まとまった文章を書くのは案外難しい。午前中くらいに、ツイッターを見ていたり、散歩したりしているときにふと、あ、このことを書こう、なんて思いついたりするのだけれど、夜になってさあ書こう、という段になると、あれ、なんだっけ? と思い出せなかったりする。

 

それではいけないと思って、思いついたタイトルだけでもどこかにメモしておこうと考えて、今日は「表現規制のこと」というタイトルで書こうとしたのだけれど、さて、何について書こうとしたのか、ぼんやりとしか思い出せない。

 

でも一つだけ覚えているのは、教科書の編集をしていたときの、一番つらかった著者交渉のこと。もうずいぶん前のことだし、会社もやめたことだし、さしさわりのなさそうな範囲で、当時のことをちょっと書いてみようかなと思う。

 

と、思ったけれど、というか、だいぶ長い文章をいったん書いたのだけれど、やはりさしさわりがありそうなので消した。個人的な体験をブログやツイッターで書くというのは、やはりなかなか勇気がいる。先日、知人が自身の不倫体験を赤裸々に綴った見事な記事を読んだけれども、あれくらい突き抜けていれば、あっぱれだよな、思うんだけど。

 

というわけで、今日はめちゃくちゃ中途半端だけど、おしまい。

春の小川3回分

今朝、自宅から仕事場までの道を歩きながら考えたこと。途中、ほんの短い距離だけど玉川上水沿いを歩く。だいたいずっと住宅街の中を歩いていく感じなので、おおむね気持ちのいい散歩コースなのだけれど、やっぱり川沿いは木が茂って緑が多く、車も通らない土の道なので、ぐっと風情があって気分が変わる。最高だ。

 

で、この道を歩いていたときに、ふと、この上水沿いの道を歩く時間を、もし、「ほんの短い距離」では不正確だから、ちゃんと調べて正確な距離を書いたほうがいい、と言われたとしたらどうだろう。いまはGoogle Mapですぐに調べられる、便利な時代だ。だけど、自宅から仕事場までの道の途中、玉川上水沿いを250メートル歩く、というのは、果たして正確なのだろうか、と思うのだ。

 

今朝、今年いちばんの寒さ、と言われているにもかかわらず、わたしはなんとなく気分が浮かれていて(午後からとても楽しみな予定があったこともあって)、季節外れの「春の小川」をくちずさんでいた。上水沿いの道に入ったところで「はーるのおがわはーさらさらいくよー」とうたいはじめて、ちょうど3回うたいおわったところで右に曲がり、住宅街に入る。「春の小川3回分」のほうが、断然正確な感じがする。

 

こんなことを考えてしまうのは、文学国語とか論理国語とか学習指導要領とか実用的な文章といった言葉がどうにも逃げられない強度で迫ってくるからだ。会社勤めをしていたときはともかく、いまは、できるならこういうムズカシイ議論とは距離をとりたい。よくわかりませーん、と開き直ってしまいたい。

 

でも、こうした直接的な用語をどんなに避けたところで、文学の言葉とか、本を読むということとか、優れた文章とは、とか、そんなことばかり毎日考えて生きているのだから、結局こうした議論からは逃れられないんだな、とも思う。

 

昨日、長いつきあいの友人がすすめてくれた本が、先ほど届いた。奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』というエッセイ集。文章が美しくて、人物が生き生きと描かれていて、自分もその場にいたんじゃないかと思うようなリアリティがある。わたしはエレーナ先生が大好きになり、わたしももう一度語学を真剣に勉強してみたい、という気になり、そして自分が年をとりすぎていることを思い出して少しだけがっかりする。

 

でも! 文学にしても語学にしてもホームズにしても、他人や遠い将来のためじゃなく、今、自分が興味があるからというだけでの理由で深いつきあいを始めるのなら、年をとりすぎているなんてことはないんじゃないか、とも思う。幸い、文学も語学もホームズ研究も、そんなにお金はかからない(初版本を集めるとかの方向に走らなければ!)。これからどんどん増えていく自由時間を、どう使おうとわたしの勝手だ。

 

なあんてことを、「春の小川」をうたいながら川沿いを歩いたり、NetflixSherlockを観ながらウォーキングしたりしているとき、ぼんやり考えている。そしてしみじみと、わたしは自由だ、と考える。

 

今日はジム筋トレ30分とトレッドミル30分。痩せない。けど、少しだけ体が締まってきたように思う。気のせいかもしれないけど。