春の小川3回分

今朝、自宅から仕事場までの道を歩きながら考えたこと。途中、ほんの短い距離だけど玉川上水沿いを歩く。だいたいずっと住宅街の中を歩いていく感じなので、おおむね気持ちのいい散歩コースなのだけれど、やっぱり川沿いは木が茂って緑が多く、車も通らない土の道なので、ぐっと風情があって気分が変わる。最高だ。

 

で、この道を歩いていたときに、ふと、この上水沿いの道を歩く時間を、もし、「ほんの短い距離」では不正確だから、ちゃんと調べて正確な距離を書いたほうがいい、と言われたとしたらどうだろう。いまはGoogle Mapですぐに調べられる、便利な時代だ。だけど、自宅から仕事場までの道の途中、玉川上水沿いを250メートル歩く、というのは、果たして正確なのだろうか、と思うのだ。

 

今朝、今年いちばんの寒さ、と言われているにもかかわらず、わたしはなんとなく気分が浮かれていて(午後からとても楽しみな予定があったこともあって)、季節外れの「春の小川」をくちずさんでいた。上水沿いの道に入ったところで「はーるのおがわはーさらさらいくよー」とうたいはじめて、ちょうど3回うたいおわったところで右に曲がり、住宅街に入る。「春の小川3回分」のほうが、断然正確な感じがする。

 

こんなことを考えてしまうのは、文学国語とか論理国語とか学習指導要領とか実用的な文章といった言葉がどうにも逃げられない強度で迫ってくるからだ。会社勤めをしていたときはともかく、いまは、できるならこういうムズカシイ議論とは距離をとりたい。よくわかりませーん、と開き直ってしまいたい。

 

でも、こうした直接的な用語をどんなに避けたところで、文学の言葉とか、本を読むということとか、優れた文章とは、とか、そんなことばかり毎日考えて生きているのだから、結局こうした議論からは逃れられないんだな、とも思う。

 

昨日、長いつきあいの友人がすすめてくれた本が、先ほど届いた。奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』というエッセイ集。文章が美しくて、人物が生き生きと描かれていて、自分もその場にいたんじゃないかと思うようなリアリティがある。わたしはエレーナ先生が大好きになり、わたしももう一度語学を真剣に勉強してみたい、という気になり、そして自分が年をとりすぎていることを思い出して少しだけがっかりする。

 

でも! 文学にしても語学にしてもホームズにしても、他人や遠い将来のためじゃなく、今、自分が興味があるからというだけでの理由で深いつきあいを始めるのなら、年をとりすぎているなんてことはないんじゃないか、とも思う。幸い、文学も語学もホームズ研究も、そんなにお金はかからない(初版本を集めるとかの方向に走らなければ!)。これからどんどん増えていく自由時間を、どう使おうとわたしの勝手だ。

 

なあんてことを、「春の小川」をうたいながら川沿いを歩いたり、NetflixSherlockを観ながらウォーキングしたりしているとき、ぼんやり考えている。そしてしみじみと、わたしは自由だ、と考える。

 

今日はジム筋トレ30分とトレッドミル30分。痩せない。けど、少しだけ体が締まってきたように思う。気のせいかもしれないけど。