翻訳家になりたかった頃

翻訳家の中田耕治先生がなくなった。岸本さんのツイートを読んだら泣きそうになってしまった。「20点!」「お嬢様のチマチマ訳!」「討ち死に!」どの言葉もものすごくリアルで、中田先生の声でわたしの耳に届いた。

 

今や大翻訳家の岸本さんといっしょに語るのはおこがましいのだけれど、実はわたしも30年以上前、中田先生の翻訳教室に通っていたことがある。丸の内の大手商社でお茶汲みOLをやっていた20代前半のことだ。仕事も恋愛も迷ってばかりのぐちゃぐちゃで、今となってはいろんなことの順番が正しく思い出せない。でもとにかく、このままお茶汲みOL→寿退社で専業主婦、という道をたどっていいのか、と思い始めて、翻訳の勉強をしよう、と思ったのだった。

 

でも当時はあまりお金がなくて、まずは通信教育に申し込んだ。よく新聞に大きな広告を出していた、「バベルの通信教育」だ。何度か課題を出すうちに、成績優秀者のリストの常連になったので、もう少し本格的に勉強しようと、「サマーセミナー」を受けてみた。サマーセミナーはレベルが分かれていないので、初心者でも中田先生の授業が受けられる。(通信教育で一定の成績をおさめていれば受けられる、だったかもしれない。よく覚えてない)ほかにも複数のセミナーをとって、とくに面白かったのが、中田先生の「英米小説」と、沢田博先生の「ジャーナリズム翻訳」だった。

 

サマーセミナーの受講生には、当然ながら通年コースへのお誘いがくる。通年コースの中田教室は、ものすごく厳しくて本気の受講生しかいない、という評判を聞いていた。それなのに無謀にも、中田教室に申し込んでしまったのは、サマーセミナーの授業がほんとうに面白かったから。課題を出さずに聞いてるだけでもいいんじゃないか、という不届きな考えで申し込み、入学後の半年くらいの間、一度も課題を出さず、教室の一番後ろの席に座って、黙って先生の講義を聞いていた。20人くらいのクラスで、評判どおり本気の人ばかりが集まっている、という印象だった。授業前や休憩時間や授業後も、みんな翻訳や本の話をしていた。

 

そんなある日、授業が終わったときに、中田先生から名指しで呼ばれた。一度も課題を出していない、にもかかわらず、毎回出席している生徒はたぶん私だけだったから、ついに叱られるのだ。一番後ろの席からおそるおそる教卓へ向かった。中田先生は、いつもの厳しい口調ではなく、とてもやさしく、どうして課題を出さないのかとたずねた。わたしはもごもごと言い訳を言ったと思う。そうしたら先生は、「全部は無理だったら、少しでもいいから、一文でもいいから、課題は出しなさい。それでも僕はちゃんと見てあげるから」というようなことをおっしゃった。わたしは泣きそうになって(よく覚えていないけど、もしかしたらほんとうに泣いたかもしれない)、すみません、すみません、と謝って、その次の週から授業に出られなくなってしまった。20代前半のわたしの情けない翻訳学習事始め。

 

それから会社を辞めたり留学したり結婚したり離婚したり国語の先生になったりといろんなことがあった。その間の引越し回数なんと8回。葉山の高台の中学校の国語教師になって2年目、ふと思い立って翻訳学校の門戸をたたいた。中田先生のところには、あまりに恥ずかしいからもう戻れない(もちろん、先方は覚えていないだろうけれど)。当時は複数の翻訳学校があって、それぞれ個性的だった。なんとなく、大手ではなく小さいところがいいかなと思い、「寺子屋」をうたっている翻訳学校のパンフレットを取り寄せた。なんと、あのサマーセミナーで好印象だったもう一人の講師、沢田博先生が校長をつとめているという。

 

パンフレットに書かれた電話番号に電話をしたら、男の人が出た。いろいろ質問したけど、なんだか不思議な対応で、勧誘などする気はまったくない。商売っ気が皆無なのだ。「まあ、きてみて、合わなかったらやめればいいんじゃない?」とかいい加減なことこのうえない。そしてこの口調、今ならわかる、この電話に出た人こそ、沢田博先生その人だった。(その後の私の人生で、何度か沢田先生に相談をしてきたけれど、先生の答えはいつも、こういう感じだったなあ、そういえば。)

 

こうして私はこの今はなき翻訳学校ユニカレッジに入学、それから7年、翻訳の勉強に励んだ。山本光伸先生の基礎科1年、宮脇孝雄先生の本科2年、池央耿先生の研究室4年。本科のときに児童書でデビューしたけど、池研究室ではほんとうに劣等生で、岸本さんが書いていらしたように、授業のあと、泣きながら駅までの道を歩いた。

 

卒業後も3年くらい、いろいろなアルバイトをしながら翻訳の仕事を続けた。ユニカレッジに入学してから10年くらいの間、人生の最優先事項は「翻訳家になる」だった。この間も波乱万丈は変わらず、引越し回数は7回。38歳で就職するまで、なんとか翻訳で食べていけるようになりたいと模索していた。

 

出版社の正社員採用というまたとない幸運に恵まれたとき、沢田さんに相談したら、「3年やってみて、いやになったら戻ってくれば」と言われた。そうか、3年か。ちょうど4年目くらいの頃、会社で思うような仕事ができず、今ならまた翻訳の仕事に戻れるかもしれない、と思ったことがある。でも、もう3年以上、英語を読んでいないのだ。そこで、自分を試すような気持ちで、リーディングの仕事をもらいに行った。以前は2週間で1本仕上げていたけれど、久しぶりなので念のため1ヶ月の期間をもらい、これをきちんと仕上げることができたら、会社をやめて翻訳家復帰を真剣に検討する。だめだったら、復帰は諦めて会社勤めをがんばる。

 

結果は、後者だった。1ヶ月かけても、リーディングを1冊仕上げることができなかったのだ。もちろん、仕事が猛烈に忙しかったということはある。でもそんなことは言い訳にはならない。翻訳をやりたい、という気持ちが、やっぱり足りなかったのだ。以前、某有名翻訳家が、「翻訳家になりたいというのと、翻訳の仕事をしたいというのは、少し違うのかもしれないね」と言っていた。今ならわかるのだけれど、私は20代の頃からずっと、翻訳家になりたかったのだ。翻訳の仕事が好きだったわけじゃなく、私の目の前にいた、中田耕治や沢田博や山本光伸や宮脇孝雄や池央耿に憧れて、彼らのようになりたかった。

 

今、わたしの頭の中に、なぜか高校時代の同期の男子の声で、「ちょれえー」と囃し立てる言葉が響いている。ほんとうに、まったく、情けないけど、わたしはちょろい。でもまあ、いいじゃないか。ちょろいなりに10年努力して、憧れの人たちの間をうろついて、同じ空気を吸って、そうこうするうちにこうして、曲がりなりにもその人たちといっしょにお仕事ができるようになったのだから。

 

最後に岸本さんにならって、翻訳修行中に先生方に言われたお叱りの言葉を記しておこう。

池先生「美文麗文は不要です」

山本先生「ま、いいかというあなたの声が聞こえてくるような訳文です」

沢田先生(研究室進級試験に落ちたとき)「まだ落ち込むほどのところまで来ていないでしょう」

皆さん、厳しいなー。でも、今思うと、愛情あふれる厳しさだった。ありがたいことだ。

 

今日は午前中は翻訳書の仕事、午後は国語の学習参考書の仕事。フリーになってから、自分でやりたいと思った仕事しか受けていないので、ストレスはほとんどない。体調もすこぶるいい。年収が激減することに不安はあるけど、まあ、なんとかなるだろう。しっちゃかめっちゃかだった20代、30代を思えば、現在の生活のなんと安定していることか。

 

今日は筋トレとストレッチを1時間15分。ほぼ毎日運動しているのに痩せない。トレーナーさんに相談したら、睡眠の量と質も大事、と言われた。ので、今日は早く寝ようと思った。のに、もう2時半だ。寝る。