プロの仕事

昨日、病院のベッドの中で『翻訳万華鏡』読了。

翻訳万華鏡

翻訳万華鏡

謙遜でも何でもなく、わたしは池研究室の劣等生だった。基礎科で1年、本科で2年、翻訳の勉強を続けてきて、それなりに自信めいたものも芽生えていたところだったから、2週に1度の授業のたびに池先生の語調は柔らかいが非常に厳しい指摘に打ちのめされ、文字通り泣きながら白山通りを歩いた。4年間研究室に在籍し、共訳書も数冊出したけれど、池先生に認められた、と思った瞬間は一度もない。翻訳家版『徒然草』みたいなこの本を読み終えて、ああ、やっぱり自分とは対極にあるようなタイプの先生について勉強していたんだな、とあらためて思った。自分にも他人にも厳しく、自信と誇りに満ちていながら、絶妙に肩の力が抜けていて洒脱。実は研究室の入室試験を受ける際、相談した翻訳学校の校長から、すでにこのことを指摘されていた。あなたとは全く逆のタイプだから苦労すると思うけど、がんばってついていけば力になるはず、と言われたのだ。その予告どおり、ものすごく苦労した。先輩との距離が開く一方、さらに、後から入ってきた生徒が池先生ばりのストイックな人で、ああ、翻訳というのはこういう人がやるべき仕事なんだ、と諦めの境地に至ったりした(この人はもちろん、いまでは立派に翻訳家として活躍している)。


でも、翻訳学校の校長の言葉は、後半もやっぱり正しくて、がんばってついていって、結局翻訳家にはならなかったけど、この本に書かれている「翻訳とは何か」ということが、100%ではないかもしれないけれど、かなりの部分理解できる編集者・読者になった。編集者としていろいろな著者の文章を読んでいるが、時々池先生に言われた「美文・麗文は不要です」という言葉がよみがえり、そうだよなあ、と苦笑したりする。興に乗って書いている本人は、自分の文章が自己陶酔に陥っていることに案外気づかないものなんだよね。(この点をそれとなく指摘すると怒りだす人とすぐに気づいて直してくる人とはっきり二手に分かれます。長くつきあえる著者とそうでない著者との分かれ目、という気もします。)


池先生から教えられたのは、「プロの仕事とは何か」ということだったのかもしれない。3年間翻訳学校に通って、少しずつお仕事ももらって、ちょっと調子に乗っていたわたしに、「ちょっとうまいアマチュア」と「プロの文筆家」の間にある高い壁を見せてくれたとも言える。『翻訳万華鏡』という本に話を戻すと、この本を読めば、池先生の弟子でなくても、また、翻訳家志望者でなくても、「プロの仕事とは何か」ということが読み取れるんじゃないかと思う。(もちろん、いわゆるハウツー的な書き方はしていないので、ある程度の読解力がないと無理だとは思うけど。)


今日で入院6日目。明日退院の予定だ。人生初の入院というのをしてみて思ったのは、医療従事者ってすごいな、ってことだ。お医者様も看護婦さんもヘルパーさんも、ほんとうにみんな休みなくてきぱきと働き続けている。この6日間、この病院で働いている人に対して、嫌だな、と思う瞬間はまったくなかった。過剰なサービスをするわけではないが、全員が役割をわきまえ、医師は医師らしく、看護婦は看護婦らしく、まさに「プロの仕事」を提供している、という感じだ。病室は常に清潔、毎回温かく美味しい食事が供される。まあ、当たり前といえば当たり前なんだろうけど、当たり前のことをきちんとやり続けるのって、それなりに大変なんだよね。


読書中の本は、P・D・ジェイムズ高慢と偏見、そして殺人』。あんまり難しい本は読めないので、ひさびさのポケミス