どうして僕はこんなところに

ふと思い立って、江國香織さんのエッセイを片端から読み返す。
恋愛や男の人についてのエピソードももちろんいいのだけれど、
わたしがとくに好きなのは、家族(両親と妹)の話と、身の回りのちょっとした「好きなもの」の話だ。
同い年、本好き、といった共通点のせいなのか、家族の中での会話も、読んでいる本も、食べているものも、
びっくりするほど似ている。
だから、さりげない思い出や日常のひとこまの中に、「妹」が登場すると(じつによく登場するのだ)、もうだめ。
どんなに楽しいことが書いてあっても、いや、楽しいことが書かれていればいるほど、
自分が妹と過ごした時間のあれこれを思い出し、そのことを、「ああだったね」「こうだったね」と言い合うことは、
もう二度とないのだと思うと、涙がとまらなくなる。
そもそも、江國香織さんの文章は、どんなに幸せな風景を描いていても、なんともいえず切ないのだ。
その幸せは、有限なのだということ、
有限だからこそ、輝いているのだということを、
最初からふくみこんでいるような文章だ。


入院中、ヨーグルトのパッケージに書かれた「生乳入り」の文字を「なまちちいり」と読んで腹をたてる父。
お風呂好きの江國さんが結婚して家を出ていく日、
玄関で「これでもう朝起きて、生きてるかどうかたしかめにお風呂をのぞかなくてすむのね」と述懐する母。
ホテルにこもって仕事をしている姉のところに、「きちゃったよーん」といってやってきて、歌をうたって帰っていく妹。
(……ああ、だめだ、そう書いただけで涙がでてくる…)
江國さんのお父様もお母様も、いまはもうこの世にいない。
わたしの妹も。


しまった、こういう悲しいことを書くつもりはなかったのだ。
江國さんのエッセイをひととおり読み返したところ、二つ、嬉しい発見をしたから、そのことを書こうと思ったのだった。
まずひとつは、江國さんは昔、烏山に住んでいたことがあるらしい、ということ。
そうかあ、じゃあ、「たちばな」のフレッシュパンセ、好きかなあ。
ケニヤン」のアイスミルクティーとか、飲んでいたかなあ。
まあ、他愛もない話だけど、なんとなくうれしかった。


もうひとつは、もう少し、価値のある発見。
『泣く大人』の読書日記のところに、こんな記述があった。


  二月某日
  去年買ったまま、恐くて読めずにいたブルース・チャトウィン『どうして僕はこんなところに』(池央耿ほか訳、角川書店)を、
  覚悟を決めて読んだ。恐かったのは、読めば茫然として、脳も心も現実に上手く即さなくなり、
  しばらく仕事にならないことがわかっていたからだ。
  (中略)
  まる二日、日に三度お風呂に入りながら、没頭して読んだ。やっぱり茫然とした。
  二日目の夜になって雨が降り始めたことにも、気づかなかった。
  (201−202ページ)


おおっ! 江國さんが、『どうして僕はこんなところに』をこんなに夢中になって読んでいたなんて!
この本は翻訳学校時代に、池研究室のメンバーでものすごく苦労して共訳した、思い出の本なのだ。
「神保睦」というペンネームが懐かしい。
いつも厳しい池先生が、わたしの訳文をはじめてほめてくださったのが、この本の訳稿だった……
うーん、せっかく、翻訳への未練をたちきって、会社員に徹しようと思っているのに、
こうして思いがけないところから、ちらっ、ちらっ、と目の前に姿を見せるのか。
「どうしてお前はこんなところに」と、思わず声をかけたくなった。

泣く大人 (角川文庫)

泣く大人 (角川文庫)

どうして僕はこんなところに

どうして僕はこんなところに