それを個性とはよばない

中学で国語を教えていたころ、時折、保護者から言われた。
「うちの子は個性的なので、先生の読みとはちがっていて、テストで○がもらえなくて」
そのたびに、それは個性とはよばないのです、誤読しているのです、と思った。
いうまでもなく、ここで言っている「先生の読み」とは、
この作品はここで感動しなくちゃいけない、とか、
ここからこういう道徳的な価値を見出さなくちゃいけない、という話では断じてない。
この作品は、当然、こう読めなくてはいけない、ということは、
たとえ本文にハッキリ書いていなくても、厳然としてある、とわたしは思っている。
そこのところが読み取れていない、ということは、
国語力、読解力が不足している、ということなので、
そこでとんちんかんなことを言うのは、「個性」でもなんでもない。
そういう部分に対して、
「なるほど、おもしろい見方だね」と言って肯定していくことは、教育ではない。
それが教育ではないのは、
「君の読み方は間違っているよ」とだけ即答することが教育でないのと同じくらい、
教育ではない。


同様に、たとえばある本の書評が、
その本がどういう本なのか、その本の魅力はどこにあるのか、が、
読む側にまったく伝わらない、意味がわからないとしたら、
それは、「個性的な文章」でもなんでもなく、単にひとりよがりなだけだ。


「みんなちがって、みんないい。」
まったくそのとおりで、そのことじたい、異論はない。
けれどもそれは、文学なら文学の、社会生活なら社会生活の、一定の「お約束」をクリアしたうえでの話だ。
子どもは教育によってその「お約束」を身につけていくのだけれど、
その「お約束」の身につけ方はさまざまだ。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対する答えはもしかしたら一生でないかもしれないけれど、
「人を殺してはいけないのです」というお約束をたたきこむことはできる。
「『舞姫』の太田豊太郎はなぜエリスを捨てたのか」という問いに対して、
唯一無二の答えなどないと思うけれど、
「他に好きな女ができたから」という答えは誤答だ。
でも、「太田豊太郎の行動をきみはどう思うか」という問いに対しては、
それこそ「みんなちがって、みんないい。」
ただ、「最初いいと思ったくせに飽きたからって女をすてるなんて最低だ」という意見があったとしたら、
「豊太郎はエリスに飽きたからすてたのかな?」と、お約束をクリアしていないと思われる部分に対して、
示唆を与える必要があると思う。


文学における「お約束」の厄介なのは、
はっきりとした線引きがない、ということだ。
以前、若島正さんの講演に行ったとき、
「この作品は、こうとしか読めない、という線がある」という話をして、
その線があまりに高いのに驚いた。
「ええ〜っ」と思ったけれど、若島さんがそう考える根拠の説明を聞くうちに、
なるほど、そうとしか読めない、と考えるようになった。
若島さんは「読み巧者」として、読み手として発展途上にある私という読者に、
新たな「お約束」を教えてくれた、ということだ。
こんなふうに、文学の「お約束」の線引きは常に、
個々の作品と読者によって決まる。
たとえば「ごんぎつね」について、「4年生だったらこれくらいまで読めれば十分で、
ここまでの読みを要求するのは酷だろう」というような言い方がある。
これはあきらかに、教える側の「大人」と教わる側の「子ども」との間に、
「お約束」理解度、浸透度、という点で差がある、という前提のうえの言説だ。
こういう言い方に対して、
「教える側、教わる側、という考え方じたいがおかしい」
「お約束理解度、浸透度に差がある(子どものほうが劣っている)とは、何たる傲慢」
という批判も、当然あるだろう。
でも、ここの部分については、わたしはやっぱりどうしても譲れない。
「お約束」の部分を押さえずして、何が「教育」だ。
自らの思想や道徳観を押し付けることとの違いをふまえずして、何が「教育者」だ。


ふう。なんか、くたびれちゃた。
明日会社行きたくないなあ。