「編集者」の傲慢―自戒をこめて

先日、部内の人たちと打ち合わせをしていて、
あれ? と思うことがあった。
国語の教科書に載せる文学作品について、
「底本」「原文」をどれくらい尊重すべきかということが話題になっていた。
どうやらわたしは、頑固な「原文尊重派」と思われているらしいのだ。
そんなことはないのに。


教科書をふくむ本の編集にしても、自分で翻訳をするにしても、
文体や表記で意識するのは、常にまだ見ぬ「読者」の姿だ。
熱心にサービスすべき相手は常に「読者」であって「作者」「出版元」ではない。
想定する読者にとってもっともよい文体・表記で提示しようとするのは、
編集者としても、翻訳者としても、しごく当然のことだろう。


ただ、部内の人たちの「誤解」は、まったく根拠がないわけではない。
わたしは「著者の原稿」にたいする朱いれ(鉛筆いれ)に、ものすごく神経質だからだ。
いや、わたしが神経質だというより、教科書・教材ギョーカイの編集者が、あまりに無神経だということなのだけれど。
たとえば、「ぎょっ!」としたことのひとつに、読点のうちかえの問題がある。
「この著者は読点が多すぎるから」
「このままでは読みにくいから」ということで、
読点を加えたり減らしたり、ということを、原稿段階で勝手にしてしまうのだ。
そうやって整理してしまってから、ゲラを送り、「漢字のとじひらきや句読点などの表記についてはこちらのルールで統一しました」とことわる。
いや、ゲラを送るのはまだ丁寧なほうで、媒体によっては(教材や指導書など)著者校正すら省略し、
完成した印刷物を見て著者ははじめて、自分の文章が変えられていることに気づく、ということすらある。



「どうせ気づかないよ」という人もいる。
でも、そんなことはないんだな〜。
書き手には自分のリズムのようなものがあるから、
途中で読点を「整理」されたりすると、すぐにピン!とくる。
で、「まあ、いいかな」と思う場合もあるのだけれど、時折、
「どうして、どうしてここに、読点なんていれるの!!!!」と思うこともあるのだ。
漢字のとじひらきだって同じ。
たとえば、書き手はきっぱりとした意志を持って、「やわらかな手ざわり」と書いているのに、
これを、「統一! 統一!」といって、「柔らかな手触り」とやられてしまったら、もう、作品はだいなしだ。
だから、それでも「「統一」したいのならば、絶対に、絶対に、事前に著者とやりとりをしなくてはだめだ。
それも、丁寧に、謙虚に。
わたしが時折、部内の編集者たちに対していらだつのは、
目の前の著者原稿や作品に対しての「上から目線」「傲慢さ」を感じるからだ。


作品は「読者」のためにある、ということを、否定する著者は少ないだろう。
だからこそ、著者とやりとりをするときは、
お題目のように「読者のために」(教科書のばあいはわたしの苦手な「子どもたちのために!」)と唱えて、
こちらの都合のいい統一基準を押し付けてはいけない。
著者と編集者がいっしょになって、想定する「読者」のために作品をつくりあげていく、
既存の作品ならば、再構成していく、という気迫が必要なのだと思う。


わたしがかたくなに守りたいと思う「原文尊重」とはこういうことであって、
何でもかんでも、「著者さまの言うとおり」ということではない。
そして、もっと言うなら、教科書に掲載したいと思うほどの文学作品の書き手なら、
「幼い読者たち」のことを深く考えていることが多いのだから、
この作者との対話をとおして(作者が亡くなっている場合は綿密な作品研究をとおして)得るものは、
編集者同士や教育学者との対話で得られるものよりはるかに豊かで、意味があるんじゃないだろうか。


冒頭の会話の中で、ある先輩編集者が、
「小学校の教科書に載せる文学作品は、教材であって文学ではない」と言ったのだけれど、
わたしは、これまで書いてきたような理由で、
それはちょっと違うんじゃないかなあ、そういうふうには考えたくないなあ、と思ったのだった。
(上の発言者は、原文尊重の行き過ぎを戒めるためにわざとそういう断定口調で話したのだと思うけど……)