ダメな句読点のことなど

昨日は上野で開かれた「新・世界文学入門 現代日本ドストエフスキー」というのに行ってきた。
定員380名の席が満席。若い人もいるし、年配の方もいる。
世界文学に興味のある人がこんなにいるのかあ、と思いながら開演を待つ。
最初の20分ほど、ホスト役の沼野先生が今日の話題の概略を説明。
埴谷雄高大江健三郎村上春樹の3人の名前をあげて、現代日本文学とのかかわりも話したい、とのこと。
ほー、それは楽しみだ!
亀山先生登場。沼野先生は冗談で、「皆さん、わたしの話なんかじゃなくて亀山さんの話を聞きにきていらっしゃるんでしょうから」なんて言ってたけど、
実際のところどうなんだろう。
亀山先生は40分くらい、ドストエフスキー漬けだった大学時代、ドストを離れてロシア・アバンギャルドなどの研究に熱中したころのこと、
そしてまたドストエフスキーに戻ってきたこと、などを話した。
個人的にはやはり大学時代の奮闘話がおもしろくて、
こんなに立派なセンセイにも、あっちこっちにぶつかってばかりの青春時代があったのね〜などと思ったり(あたりまえだけど)。
でも、なんといっても、沼野×亀山の対談になってからがやっぱりおもしろくて、
ドストエフスキーに対する思い入れのしかたとか、
現代日本文学についての考え方とか、
うーん、ちがうな、もっと大きなところで、文学(研究?)そのものに対する向き合い方みたいなのが、
この2人のロシア文学者は、全然ちがうなー、という印象を持った。
どちらがいいとか悪いとかじゃなくて、それぞれに優れていて、どちらもきっとこのギョーカイにとって不可欠。
昨日は会場が暗くてメモをとらなかったので、あまり具体的なことが書けないんだけど、
全体としての印象はそんな感じ。
亀山先生がやたらと加賀乙彦にこだわったので、埴谷雄高村上春樹の話はあまり出なかったんだけど、
大江健三郎の『水死』については沼野先生も亀山先生もかなり熱弁をふるっていて、なかなかおもしろかった。
亀山先生がドストの研究者として『水死』を読んで、漱石の『こころ』を再認識した、という話をして
(『水死』に『こころ』の話が出てくるので)、
それを受けて最後のまとめとして沼野先生が、
ドストエフスキーから大江健三郎へ、そして夏目漱石へと、読書が連鎖していく、これが文学作品を読むことの醍醐味ですね」
というようなことを言っていて、
いやあ、沼野先生、さすがです〜!と思ってしまった。
途中、ロシア作家の名前がいっぱい出てきて、??となっていたかもしれない聴衆、
加賀乙彦なんて名前も知らないし、『水死』だってタイトルは知ってるけど読んでないよ、という聴衆を、
最後に一気に「みんないっしょの文学愛好者」というまとまりにして、
これからもみんなで文学を読んでいこうね、守っていこうね、ロシア文学ヨロシクね、というメッセージを送る。
その根底には膨大な知識と明晰な分析力、そして何より、ロシア文学をはじめとする世界文学(含日本文学)への愛情があることが、
びしびしと伝わってきたのだった。
一方の亀山先生は、外語大の学長となった今もなお、ドストに熱中した青春時代の面影をどこかそのまま持っているみたいで、
何について話しても、話しているうちにずぶずぶと細部に入り込み、ぬかるみにはまって出られなくなるみたいな感じで、
とくに加賀乙彦の話は、『湿原』『宣告』を読んでいない人には、言っていることよくわからないんじゃないかなーと。
(わたしはどちらもかなり好きな小説で、ストーリーも登場人物もまあまあ覚えている、にもかかわらず、?となることもあったくらいだ)
でもまあ、亀山先生の湿度の高い情熱みたいなのは伝わってくるので、それはそれでなんだかとても文学者らしくていいなあー、と思った。


高田馬場経由で帰ることにして、駅前の芳林堂に寄る。
あれこれ手にとってみたけど、結局、「モンキービジネス」の最新刊のみを購入して帰宅。

モンキービジネス 2010 Spring vol.9 翻訳増量号

モンキービジネス 2010 Spring vol.9 翻訳増量号

何しろ翻訳増量号だし、訳者も柴田元幸はじめそうそうたるメンバーだから、
これは読まなくちゃ、ね、と。
ところが……。
予想はできたことなんだけど、どうもわたしは、柴田さんの選ぶ作品と相性が悪いらしく、
どの作品も、読み終わると、ふーん、という感じになって、心から楽しめない。
翻訳がうまいのは間違いなくて、これはもう、あきらかに好みの問題。
ただ、この「モンキービジネス」という雑誌と柴田元幸という人に対して、賞賛、敬意の気持ちがあるので、
これからもこの雑誌は出るたびに購入するつもりだ。(休刊にしないでねー)


今号の「モンキービジネス」に、「世界を記述する方法」というタイトルの、柴田元幸福岡伸一の対談があって、
これがなかなかおもしろかった。
福岡さんが文学について語っている内容もなかなか奥深くておもしろいんだけど、
ちょっと引用しにくいので、興味のある方は買って読んでください、ってことにして、
柴田さんが学生の翻訳に赤入れするときの様子について言及している部分を。


  柴田  ……ただ、句読点が雑な訳文に対しては罵倒するんですね。
  福岡  どういうふうに?
  柴田  赤入れの力の入り方とかが全然違うんです。「!」を三つつけたりして、教師がキレかかっているのがわかるようにやったり(笑)。
      読者にきちんと届くようにするためには、句読点ってすごく大事だと思うんです。
      いい句読点は、アメンボが水面をすーっすーっと滑っているような感じで、点から点へストンと落ちるんですよね。
  福岡  ダメな句読点っていうのはどういうものなんですか?
  柴田  読んでいるときの息遣いとは無関係に、ここに点を入れると意味の誤解の可能性が減るからというだけの理由で、
      リズムを無視して入れている点とかすごくいやですね。…… (134ページ)


柴田さんのこの言葉が、わがギョーカイの人々の耳に届きますように。


一昨日、江國香織『真昼なのに昏い部屋』を読了。

真昼なのに昏い部屋

真昼なのに昏い部屋

専業主婦の人妻が、近所に住む外国人と不倫の恋に落ちるという俗っぽいストーリーが、
ぎりぎり俗っぽくならずにすんでいるのは、この童話のような文体のせいだろう。
この小説の主人公は、ふわふわしていてこの世のものとは思えないような感じで、
実際にお会いした江國さんその人の印象と重なる。
手提げ袋が「しゃらしゃら」鳴ったり、赤ん坊が「はちはち」肥っていたり、大学芋のことを「もくもくした」食べ物と言ったり、
この言葉遣いは、童話や児童文学の世界のものだ、と思う。
そういえば主人公の人妻の、この世のものではないような不思議なたたずまいは、
わたしのよく知っている某童話作家のそれに通じる。
だからこの小説は、ファンタジーとして読めばいいのかもしれない。
……などということを書こうかなーと思っていたところ、
紀伊國屋の書評ブログでこの本を阿部公彦さんがとりあげているのを知った。ぶーん。
「はちはち」とか「もくもく」とか、引用が重なっちゃったけど、まあ、消すのもなんなのでこのままで。
まねしたわけじゃないので、念のため。


「俗っぽいストーリー」ということで言うと、
先日始まった「同窓会」というドラマが、俗っぽさの典型だと思った。
第1話の再放送を観ただけで批判的なことを言うのはよくないかもしれないけど、
45歳の男女の恋愛って、こんなに俗悪にしか描けないのかしら……と、げんなり。
俗悪かファンタジーか。この二者択一しか道はないのか。


明日は真鶴へ海鮮丼を食べにいく予定。
携帯本は何にしようかなー。