世界文学は愉しい

今日は横浜で行われた会合に出席。
久しぶりに横浜ルミネに入った。二十代の頃、妹と二人でさかんに買い物に出かけたことを思い出す。
身長も体重もあまり変わらなかったので、ジャケットやコート、小物類をはじめ、かなりの衣類を共用していた。
ほんとうに仲のいい姉妹だったのだ。しんみりしてしまう。


会合での話題は、仕事に差し障るのでここでは書かないが、
自分はつくづく、小説が好きなのだなあ、と実感。
いろいろなジャンルの文章について、まんべんなく話さなくてはいけない場面なのに、
どうしても小説の話に力が入ってしまう。いかん、いかん、と戻すのだけれど、ふと気づくと、また。
そういえば、中学校の教師をしていたころ、生徒から「mariセンセーは物語の授業のときはすごく楽しそう。
説明文はあんまり楽しそうじゃない」と指摘されたことがあり、いかん、いかん、と思った記憶がある。


教科書の業界に入ってちょっとショックだったことのひとつに、
翻訳小説の地位が低い、ということがある。
わたしが子どもの頃は、国語の教科書に、結構、翻訳小説が入っていた。
でも最近は、小中高どの学年でも、1年に1作品あれば多いほうだ。
それでも中学校教科書では、ヘッセ「少年の日の思い出」、魯迅「故郷」などの定番があるけれど、
高校になると翻訳小説はほとんど見かけなくなる。
「翻訳ものは授業では扱いません」と言う先生もいるくらいで、
その裏には、翻訳は日本語の文章が下手だから、という評価が見え隠れする。


でも、今日の会合でも感じたのだけれど、
ごく最近はまた、少しずつだけれど、翻訳ものが見直されてきているように思う。
村上春樹サリンジャーや亀山ドストなどの新訳が話題になって、
「翻訳は日本語が下手」というのは偏見かも、という風潮が広まり、
内容のおもしろさや深さ、そしてその魅力を伝える日本語の表現力、そのすべてを備えもっている翻訳小説であれば、
授業で翻訳小説を扱ってみてもいいかな、という気分が高まっているのではないか。
……なあんて、わたしの希望的な観測かな。


世界文学、古典、詩歌。
この流行らない3点セットの魅力を、少しでも多くの人と共有できたらいいのだけれど。
まあ、仕事の面ではできそうなことをちょっとずつやっていくことにして、
このブログも含め、自分の趣味の部分では、
大きな声で宣伝活動をしようではないか。
「読書中のヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』、おもしろいぞおおおおー!」


というわけで、先日このブログでも書きましたが、
5月はじめに二つの世界文学イベントに行ってきます!


一つはこれ↓(5月2日 亀山×沼野対談)
http://www.jpic.or.jp/schedule/info_7.html


もう一つこれ↓(5月6日 野崎×柴田×沼野鼎談)
http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_201005/20100506_talkshow.html


このブログを読んでくださっている見知らぬあなたと、会場でご一緒することを楽しみに。