結婚小説は愉しい

ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』上巻読了。

ある婦人の肖像 (上) (岩波文庫)

ある婦人の肖像 (上) (岩波文庫)

うーん。小説らしい小説を堪能している。
上中下3巻の長編だけれど、最初の数ページですっかりこの小説の虜に。
いかにもイギリス的な風景が繰り広げられる中に、
颯爽とあらわれる魅力的な若きヒロイン。
このヒロインをはじめ、登場人物の一人一人をつぶさに観察し、
その性格や心理を詳細に描いていく作者の、このイジワルな視線。たまりません。


上巻のクライマックスは、タイプの違う、しかしいずれも結婚相手としては申し分のない二人の男性からの求婚を、
ヒロインがきっぱりと断ってしまう場面だろう。
結婚が自分の自由を疎外するような気がする、という理由は、
この小説の中では、相手の男性はもちろん、周囲の親族や友人も納得させることはない。
でもおそらく刊行当時も現在も、かなりの数の読者が「わかるわかる」と思ったにちがいない。
結婚したら自由がなくなる、自分らしく伸び伸びと生きられなくなる、
そんなことは、みんなある程度はわかっている。
でも、多くの女性は千差万別さまざまな理由で、「やっぱり」結婚を選ぶのだ。
一時の情熱を永遠と信じてつっぱしる場合もあるだろうし、
これ以上の「いいお話」は自分にはもうないだろう、と冷静に判断する場合もあるだろう。
周囲のすすめや社会的な体面もあり嫌いな相手じゃないからまあなんとなく、とか、
相手の熱心さにほだされて気づいたらつい、とか、
その他いろいろな理由が、複雑にからみあって、結婚に踏み切ったり、思いとどまったりする。
そして多くの場合、人生に一度きりの選択だから、
だれにとっても人生の一大事で、
そこへ至る心の揺れや迷い、喜び、自惚れ、その他もろもろを言葉にしてみれば、
それぞれにそこそこおもしろい小説が仕上がるにちがいない。
だから、結婚小説は愉しい。
二人の純粋な恋愛だけが描かれる恋愛小説も悪くないけれど、
打算とか挫折とか諦念などなど、よくわからないけどいろんな要素がてんこ盛りの結婚小説は、
ヒロインと同世代の若い頃に読んでも、
求婚される可能性など皆無となった中年になってから読んでも、
それぞれに十分に楽しく読める。


既にこの作品を読了している同居人からは、
「ふふふ、このあとイザベラ(ヒロイン)はひどい目にあうのだよ……
 この小説は結婚小説というより離婚小説だから、
 ますますあなたの得意分野だね」という、わけのわからない解説を聞かされた。
でもそんなふうに言われたら、続きへの期待はますますふくらむ。
このまま中巻に突入したいけれど、徹夜になっちゃうと大変なので、
ぐっとこらえて今日はこのまま眠ることにする。


昨日書いたことと矛盾するようだけれど、
この本を読みながら、「ああ、原作を英語ですらすら読めたらなあ」と思った。
この岩波文庫版の訳は、ほとんどひっかかることがなくて、良くも悪くも「訳文」が気にならないので、
きっとかなりうまい訳なのだろうと思う。
同居人の話では、ヘンリー・ジェイムズの英語は相当難しいというから、
わたしにはきっと英語で読むことは無理で、すぐれた翻訳で読めるというのはほんとうにありがたいことだ。
それでもやっぱり、せっかくあれだけ英語を読む訓練に時間を費やしたのだから、
こういう本格的な、小説らしい小説を読むときに、原作の英語の表現そのものを味わい、楽しみながら読むことができたら、
きっとその愉しさは倍増なのだろうなあ、とも思う。
(はりきって買ったキンドルがただの金属板と化している現状を思うと、
 ヘンリー・ジェイムズを原書で読むなんてことは夢のまた夢ではあるけどね。)


今日は西荻の朝市に行ったあと、善福寺公園で桜をながめ、
帰宅して焼きそばの昼食。
夕方から近所のスーパーへ買い物に出かけ、
「もやさま」「レッドカーペット」を観ながら夕食。
なんのイベントもないありふれた一日だけれど、
あとから思い出すとこういう一日こそが、かけがえなく思うものかもしれない。