『無人島のふたり』読了 妹のこととYちゃんのこと

先日、山本文緒無人島のふたり』を読了。同じ病気で同じような経緯で世を去った妹のことを否が応でも思い出してしまう。妹も病気が見つかったときはすでにステージ4だった。山本さんと同様、それまで体に悪いようなことは何もしていないし、定期健康診断も受けて、二人目の子供を妊娠中の幸せ真っ只中のことだった。

 

山本さんは「突然死ぬのは私じゃない。私は、友人知人、夫や家族、全部看取って死ぬのかと思っていた」と書いている。これはほんとうにそうで、健康そのものでふっくら体型の妹は、直前にパラグライダーから墜落するという事故に遭ったにもかかわらず大事に至らなかったので、なんなら自分は不死身だ、くらいに思っていたんじゃないか。私もいま、漠然と将来のことを考えて、自分が同居人より先に逝く、というのはあまり想定していないように思う。もしそうなったら、この人をひとり残すことになったら、大変だなあ、かわいそうだなあ、と思う。山本さんは体調のよいある日、夫とお気に入りのカフェに行き、「葬儀のことはどんなふうに考えているの?」とたずねる。「案の定涙ぐむ夫。」とある。それから、夫が自分で作ったグラタンをひっくり返してしまって呆然とし、泣き出してしまったというエピソード。いま思い出しても切なくて、悲しくて、涙が出てしまう。

 

妹は少なくとも私の前では模範的な患者だった。ステージ4と告げられても「私は死ぬ気がしないの」と言って、つらい抗がん剤治療に挑んでいた。休職の手続きをし、きっちりと後輩の男性に引き継ぎをして、「絶対戻ってくるから」と笑顔で言ったら、後輩のほうが滂沱の涙だったという。入院中は「会いたい人はみんな呼ぶんだ」と言って連絡をしまくったから、見舞客がたえず、いつも賑やかだった。旦那さんの希望もあって、最期は自宅でなくなったのだけれど、かなり具合が悪くなってからも、あまり愚痴も言わず、取り乱すこともなかった。私との最後の会話は、亡くなる数日前に、見舞いから帰る私の背中に「おねえちゃん、ありがとうね」と言った。それはたぶん、今日きてくれてありがとう、というだけではなくて、今までのいろんなことに言っているような気がして、私は妹のマンションの廊下に出てから号泣した。翌日だったか、その次に見舞いに行ったときはもう意識がなくて、言葉をかわすことはできず、そのまま旦那さんと私と旦那さんのお母さんの見守る中で息をひきとった。

 

そんな模範患者だった妹が、一度だけ、過剰に見えるほど激昂して、病院にクレームをつけたことがある。入院して1ヶ月か2ヶ月くらい経ったころだっただろうか。担当の看護師さんの一言がどうしてもゆるせない、その人の顔も見たくないから、担当を変えてほしい、という。その一言というのが、「Eさん(妹の苗字)は、家庭裁判所調査官だったんですってね」だ。

 

若い看護師さんからすると、何がいけなかったのか、すぐにはわからなかったかもしれない。妹は、「だった」という過去形に反応したのだった。妹は仕事を辞めたわけではなく、「休職中」なのだ、それなのに、「だった」とは何事だ、まるでもう、自分には復職の見込みがないという前提だと言わんばかりじゃないか、と怒った。それは尋常ではない怒り方で、実家の母などはあまりぴんときていなかったようだけれど、妹の旦那さんと私は、妹がなぜそんなに怒っているのかが痛いほどわかり、ほんとうは泣きそうだったけどそしらぬふりで「ほんとひどいね、サイテーの看護婦!」などといっしょにぷんぷんしてみせたのだった。(妹はその後も復職したときのためにと語学の勉強を始めたり、車椅子生活が決まった際にも「車椅子の家庭裁判所調査官ってかっこよくない?」などと気丈にふるまっていた。すごすぎる。)

 

妹が高校生の頃、私は同じ高校のテニス部のコーチをしていた。そのときの教え子で妹と同学年の子が、数年前にやはり癌でなくなった。Yちゃんが闘病しているらしい、という話を同期の子から聞いた。お見舞いに行きたいと思ったけれど、時期をみているうちにその日がきてしまった。Yちゃんはすらりと背が高く、やさしくはにかんだ笑顔が印象的な可愛らしい高校生だったけれど、実はチームメイトの誰よりも負けん気が強く、プライドも高かったのではないかと思う。ほかの同期の前衛3人が華々しい戦績だったのに対し、Yちゃんはテニスの実力はだいぶ落ちる、というか、ほとんど初心者というくらいのレベルだった。それでも毎日欠かさず練習に参加し、ともに泣いたり笑ったりの日々を過ごした。ところが2年生になってから、彼女は腰を痛めてしまい、通常の練習プログラムをこなせなくなる。夏の合宿ではほとんど練習に参加することができず、2学期に入ってテニス部を辞めたい、と言ってきた。

 

私はびっくりして、もう一人の大学生コーチといっしょにYちゃんの家に行った。腰は辛抱強く治せばいい、いつか必ず復帰できると信じて、できることをやっていこう、と話したら、彼女はハラハラと泣き出した。「先輩がそう言ってくれるなら」と言って、なぜテニス部を辞めようと思ったかを話してくれた。夏合宿の際、年配のOBから、「マネージャーになるとか、みんなをサポートするような形でテニス部を続けるという道もある」というような言葉をかけられたのがショックだったのだという。自分はもう、選手としてはいらないと思われているんだ、と感じたらしい。「私はYちゃんにマネージャーになってほしいなんて思ったことは一度もないよ」と言ってその日は結論を出さずに帰った。Yちゃんは結局、引退まで選手としてテニス部を続けた。たしか一勝もできなかったと思うけれど、引退したときは最高の笑顔だった。

 

妹のことも、Yちゃんのことも、今はもうこの世にいなくて、こういう昔話について詳細を確認しようと思っても、もう確認できない。だからもしかしたら私の思い込みや記憶違いがあるかもしれなくて、もしかしたら私の作り話かもしれなくて、でもだれもそれを訂正してはくれない(いや、そのときいっしょにいた人は訂正できるのか、妹の旦那とか、いっしょにYちゃん宅に行ったコーチ←誰だったか思い出せない。R先輩かA子かK先輩のだれかだ、とか)。だからこそ、できるだけいろんなことを、書き残しておこう。大きなことも、小さなことも、あとで読み返したり、思い出したりできるように。山本さんが『無人島のふたり』(ああ、なんていいタイトルなんだろう)を書き残したように。