それからはスープのことばかり。

それからはスープのことばかり考えて暮らした (中公文庫)

それからはスープのことばかり考えて暮らした (中公文庫)

読了。
敬愛する児童文学作家、あまんきみこさんの童話とよく似た読後感。
ささくれだった心をそっとなでられるような、
そのままでだいじょうぶだよ、と励まされるような。
ふわふわとやさしい物語で、ソフトすぎて物足りないような気もするのだけれど、
それでもやっぱり、主人公のオーリィ君を、わたしは好きにならずにはいられないし、
安藤さん、リツ君、あおいさん、マダム……登場人物ひとりひとりが、自分の友達のような気がしてくる。
ええ、もちろん、現実の生活は、こんなふうじゃありません。
失業、転職、大切な人との死別、など、人生のつらい節目は、
多くの場合、こんなふうにあたたかくやさしいものじゃなくて、
自己嫌悪とか誤解とか嫉妬とか裏切りとか、そういうもろもろが澱のように沈んでいたりするものだ。
でもまあ、だからこそ、こういうリアリズムの顔をした一種のファンタジーに、
心ひかれたりするのかもしれない。


先週は重要な編集会議が3つ、その間を縫うようにして社員旅行、
さらにその間の平日には職場でちょっとつらいことがあったりして、
怒濤のような一週間だった。
私の強靱な肉体は、頬に大きなにきびを一つこしらえたくらいの被害でこの一週間をのりきり、
昨日の会議の結果を記した二枚の紙を、ぼんやりながめている。
いろんな角度から、この二枚の紙を分析してみる。
といっても、わたしのようなずぼらな人間が、数値データを駆使した分析をするはずもなく、
うきうきした気分のときに見たら…とか、
へこんでるときに手にしたら…とか、
やる気満々のとき…いらいらしてるとき…など、
気分次第の場面設定をして読者の反応を想像するという、「分析」とはとても呼べない行動である。
でもその結果、少なくともわたしという第一読者は、
どのような気分のときでも、この二枚の紙には一定の合格点を出すことができる、ということがわかった。
ほっとする。


怒濤の一週間を終えた今日は代休を取得し、
午前中は自宅でビデオデッキの修理に立ち会い、
午後は病院で父の心臓の手術に立ち会った。
ビデオデッキの修理は予想以上に簡単だったのだけれど、
父の手術は予想以上に長引いた。
普通は45分ほどで終わる、わりと一般的な手術だと聞かされていたのに、
1時間、2時間経っても、父は手術室から出てこなくて、
「心配してもしょうがないからね」と母とつとめて明るくおしゃべりをして待つこと2時間半、
やっと担架で父が運び出されてきた。
父は病気がちなのでこういう光景には何度も立ち会っているのだけれど、
無事に手術室から出てきた父の姿を見たらやっぱり嬉しくて、涙が出そうになる。


病棟に戻った父は、今日いっぱいは体を動かすことができないので、
寝たまま夕食をとることになる。
看護婦さんに言われて、母が父に食べさせてあげることになったのだが、
このときの会話が夫婦漫才みたいでなんともおかしい。
口に運ぶタイミングが早すぎる、一口が大きすぎる、
ごはんとおかずを組み合わせろ、と、父はわがまま放題。
母は「はいはい」とか言いながら、相変わらずマイペースで父の口元にご飯を運び、
最後にご飯とおかずをぴったりと同じタイミングで終わらせて、
「さすがママだわ。ご飯だけ残っちゃったらかわいそうだもの、ね」と押しつけがましく自慢する。
母が「ママはパパにご飯を食べさせてもらったことなんか一度もないのよ」というから、
私が「でも、比喩的な意味では、ママは何十年もパパに食べさせてもらってるじゃない」といったら、
両親は二人して、「そうだねえ、ほんとうにそうだねえ」と、その考えがとても気に入った様子で、
我が親ながら、二人が夫婦として生きてきた五十年の重みを、あらためて感じたのだった。


新宿で母と二人で夕食。
最近読んでいる本の話をしたり(母は最近、村上春樹をお休みして吉村昭を読んでいるそうだ)、
わたしの職場でのてんてこ舞いぶりを話したり、
101歳でなくなった祖母の形見の着物の話をしたり、と、
女二人の話題は尽きることはない。ほんとうは、女三人だったのに……と思うとしんみりしてしまうけれど。
母は妹のことがあってからというもの、わたしにむかって、
「子どもは、生きてさえいてくれればいい」と言うようになった。
そのくせ、「しばらく連絡がないと、また会社を辞めたんじゃないか、
○○さん(同居人のこと)とうまくいかなくなったんじゃないかと、気をもむのよ」
「ママが死ぬまでは、会社を辞めないで頂戴。家出しないで頂戴」
などと、矛盾したことを言うのだ。
まあ、わたしのような何をしでかすかわからない、あぶなっかしい娘をもつと、
親の気苦労は絶えないだろうなあ、と、他人事のように思ったりもする。


さて、明日からまた、先ほどの二枚の紙きれを、500ページほどの印刷物に仕上げるという、
壮大なプロジェクトが待っている。
「それからはスープのことばかり考えて暮らした」の、ふんわりとした幸福感につつまれつつ、
こういう作品を書く人は、きっと素敵な人に違いない、と勝手な妄想をふくらましつつ、
眠りにつくことにしよう。