これまでのお仕事(勤め人編)

今日は仕事始め。同居人も仕事場デビュー、ということで、二人で井の頭のアパートに出かけた。古い木造アパートはとにかく寒くて、とくに足元がしんしんと冷える。お昼に外出した際にホッカイロを買ってきて足裏にペタリ。かなり改善された。寒いということをのぞけば、机とヨギボーしかないこの部屋は、仕事に集中できるという意味でベストな環境。久しぶりの翻訳仕事、まあまあの進み具合。

 

気分的に余裕があるので、これまでのお仕事人生を振り返ってみようと思う。大学時代のアルバイトやフリーランスの頃のちょっと変わったお仕事はまたの機会にゆずることにして、まずはフルタイムの勤め人としてのお仕事の変遷を。

 

大学を卒業したのは昭和の終わりが近づきつつある1986年。バブルの真っ只中だった。大手商社に縁故入社して、いわゆるお茶汲みOLを2年。所属はお菓子の材料の輸入を扱う部門で、女性社員の仕事は基本的に男性社員のアシスタント。ただ、「輸入受渡業務」という、船積書類の準備や保険料の支払い、倉庫への注文などの一連の事務作業は、女性社員に委ねられていて、自分で判断する機会はほとんどなかったものの、どうしたらミスなく効率的に仕事を進められるかを考える余地は多少はあったかなと思う。そしてこの時覚えたB/Lの裏書きだの、CIF契約だのといった言葉を、数十年後の出版社の仕事で聞くことになったのは、驚くべきめぐりあわせだった。

 

アシスタントでついた男性社員は有名大学の応援部出身、若く独身だったこともあって、仕事終わりによく飲みに連れていってくれた。銀座のバーや東京のステーションホテルなど、今思うとずいぶん分不相応な店に行った。もちろん一度もお財布を開けたことはない。いつもよく尽くしてくれているから、ということで、全部男性社員の奢り。そういう時代だった。

 

今思い出すとちょっと恥ずかしいのだけれど、当時、自分は仕事ができる方だと思っていて、男性社員のアシスタントという身分が少し不満だった。手書きで記入する分厚い台帳があって、女性の先輩方はきれいにミスなく書いているのに、わたしはしょっちゅう書き間違えて、訂正印を使って修正し、また間違えて書き直し、という繰り返しで、「台帳がきたない」と注意されたほどだった。それでも当時は若さゆえの傲慢で、単純な事務作業が苦手なだけだ、と思っていた。入社2年目には早くも寿退社する同期が続々と現れ(そういう時代だった)、会社辞めたいモードは最高潮に達し、イギリスに短期留学をするという理由で会社を辞めた。

 

3ヶ月の短期留学を終えて、一応、立派な英語の資格も得て帰国。せっかくだから英語力のいかせる仕事に就きたい、と思って毎日新聞の求人広告をながめ、まもなく出会ったのが、英語教育雑誌の編集アシスタントの仕事だった。またしてもアシスタントではあるものの、この教育雑誌の編集部は編集長とアシスタントの2人だけで成り立っていたので、入社してすぐにページをもたせてもらったり、編集後記を書かせてもらったりして(一般の刊行物に自分の文章が載ったのはこれが初めてだった)、少しだけ編集者気分を味わうことができた。若くないけど独身だった当時の編集長は、落語をきいたことがない、という私を寄席に連れていってくれたり、雰囲気のある居酒屋でご馳走してくれたりした。当時その会社には雑誌の編集部が4つあって、同世代の男性社員や女性アシスタントが遅くまで仕事をしていたから、夜遅い時間から皆で飲みに行くようになった。自宅通勤の熱血運動少女だった私は、このときはじめて、本や映画や音楽の話をだらだらしながら朝まで飲む、というような生活があるのだということを知る。編集の仕事を本格的にやってみたい、アシスタントではなく正社員の編集者になりたい、と思ったものの、当時の(今も、かも)その会社はアルバイトから社員に登用する可能性はない、と断言していたうえに、3歳年上の編集者の膨大な読書量に圧倒されてこんなにすごい人じゃないと編集者にはなれないんだと誤解?してしまって、編集者への道はいったんあきらめることになる。25歳だった。

 

その後、紆余曲折を経て、勤め人としての3つ目の仕事に就いた。公務員。中学校の先生。いろんな偶然や誤解や思い込みが重なって、中学校の国語教師になりたいと思いつめ、通信教育で免許をとり、採用試験の勉強をし、合格通知を手にした。27歳、大船駅からほど近い木造アパートで一人暮らし、小さな車を買って、葉山の高台にある中学校に車通勤。1年C組の副担任、バドミントン部顧問、1年生3クラスの国語の授業を全部担当した。当時はどこの教科書かなんてまるで関心がなかったけど、あとで教材を思い出してみると、やっぱり光村だったみたいだ。授業の準備をするのも、授業をするのも、テストを作るのでさえ、楽しくて、国語の先生になってよかったなあ、と思いながら、張り切って1年目が過ぎた。

 

ただ一つ、問題があった。今思うと滑稽ですらあるのだけれど、当時私はどうしてもソフトテニス部の顧問になりたくて、バドミントン部の顧問がいやでいやでしょうがなかった。19歳から27歳まで、ほぼ切れ目なく母校のソフトテニス部のコーチをしていたから、ソフトテニス部の顧問なら、ほかの人に負けない、いい顧問になれる、と無邪気に思っていた。学校教育というのはそんなものじゃない。今はわかるんだけど、当時はバドミントン部顧問の仕事や、合唱コンクールの指導、清掃活動や給食活動など、自分自身が魅力を感じない教育活動に割かなくてはいけない時間が長すぎて、だんだん気持ちが追い込まれていった。あんなに楽しかった授業準備や授業もつらくなってきて、またしても退職を考えはじめる。最初の商社が2年、国語教師も2年。わたしは一つの仕事を2年以上続けることができないのではないか。30歳を目前にしてようやく、さすがにこれは自分の性格に問題があるのであって、仕事の側の問題ではない、ということに気づく。

 

それからしばらく、翻訳の勉強&仕事をしながら複数のアルバイトをこなす日々が続いた。一人暮らしのアパート住まいで、貯金もなく、一番生活が苦しかった時期。32歳のとき、当時住んでいた家から自転車で行ける距離のところにある編集プロダクションが、国語の教材の編集アルバイト募集の求人広告を出していた。30歳以下、経験者優遇。普通なら年齢オーバーで諦めるところなのだけれど、ダメ元で電話をして、「年齢は32歳ですが、若く見えます! 自転車通勤なので交通費ゼロです!」と自己主張してなんとか採用してもらった。この編集プロダクションで5年間、アルバイトとは名ばかりの、かなりがっつりと編集の仕事に従事した。小学校の準拠教材や、中学生向けの塾教材、高校教科書の指導資料など、ずいぶんいろいろな種類の書籍をつくった。短期間で、大量の編集作業をこなすことが求められる職場で、期待にこたえようとがむしゃらに働いた。

 

定収入を得て、生活の不安は解消したけれど、こちらの仕事が忙しすぎて翻訳の仕事をする時間がない。だんだん翻訳の仕事の割合が減っていって、このまま教材編集のアルバイトを続けていっていいのか、と思い始めたとき、翻訳書の編集の仕事を紹介してくれる人がいて、それなら、と思い切って編集プロダクションを辞めたのが、37歳のとき。気づけば2年ジンクスを大幅に超えて、5年も勤めることができた。大進歩。そしてこのときの編集プロダクションで教えてもらったことは今もいきているし、このとき出会った人々との関係は今もずっと続いている。

 

翻訳書編集の仕事の紹介の話がさまざまな事情で頓挫し、またしてもフリーターに。翻訳の仕事だけで食べていくのは難しいし、何か適当なアルバイトを探さなくては、と焦っていたとき、前職の編集プロダクションの取引先の出版社の人から、「ちょうど国語の教科書編集者を募集しているから面接を受けてみたら」と声をかけてもらった。アルバイトだと思っていたら、正社員だという。この頃には、編集の仕事も翻訳の仕事も、どちらも片手間でできるものではない、ということを肌身に染みて感じていたから、この会社に入社できたら、翻訳の仕事はきっぱりやめよう、と決めた。合格の通知をもらい、最後の翻訳作品を仕上げてこの出版社に入ったのが、2002年の6月。38歳だった。

 

入社して最初の年は、高校国語の指導書の編集。2年目〜3年目、高校の国語教科書の編集。4年目〜6年目、中学校国語の教科書編集、小学校国語の教科書編集。7年目〜9年目、高校国語教科書の編集、10年目〜11年目、高校国語の指導書編集、12年目〜18年目、一般書(翻訳書、図鑑、事典、アンソロジー、単行本)編集、19年目、高校国語学参編集。一つの仕事を2年しか続けられなかった私が、19年も同じ会社に勤め続けることができた。留学後に勤めた出版社や、編集プロダクションで働いていた時期を足すと、編集の仕事をしていた期間は25年。勤め人人生の大半を占めているということになる。自分で企画し、著者や翻訳者を探し、企画会議を突破して刊行までこぎつけ、宣伝方法を考え工夫して、世に送り出す。編集の仕事のフルコースを何度も繰り返し、その醍醐味を満喫してきたという実感はある。

 

さて、やっと現在の地点まで来た。挫折や失敗も含め、これまでのお仕事のあれこれをすべて背負って、これからフリーランスになるのだ。定年まではまだ少しあるとはいえ、50代後半での独立開業、そう簡単ではないだろうと覚悟はしている。でも、個人的には32歳で編集プロダクションに応募したときと似たような気分だ。(若く見えます!と主張してもしょうがないけどね)

 

今日の運動は、外ウォーキング30分、ジム筋トレ30分、トレッドミル30分。運動がんばっているわりには体重は減らず。お昼のカレーと夜のデザート(ケーキ)が重い。明日も仕事だー。