本を読んだり仕事をしたり

今週は淡々と会社と家を往復する日々。
5冊セットの単行本の校了がせまっているため、仕事はそこそこ忙しい。
けれど、この単行本は、著者をはじめとしてかかわっているメンバーがすばらしいので、
まったくといっていいほど精神的なストレスはない。
挿絵があがってくればおおっと喜び、
著者校正のみごとさに恐縮し、
対談者の言葉の奥深さに舌を巻く。
もう何回読み返しているかわからないゲラなのに、
今日、ゲラを読みながら、また涙してしまった。
ひとつは戦争で死んでゆく女の子の話、もうひとつはお母さんが天の国にひっこしたと思っている男の子の話。
この著者、うますぎる……。


家に帰ってきて、寝るまでの時間は読書。
今週は2冊読了。

葉桜の季節に君を想うということ (文春文庫)

葉桜の季節に君を想うということ (文春文庫)

おもしろい、という評判を聞いていたので、旅の友に、と鞄にいれた文庫本。
うーん……わたしの評価は微妙。
つまらない、というわけではないのだけれど、ねえ。
普通のハードボイルド小説として読んでいって、
最後に大どんでん返し、というか、すごい大仕掛けがある。
これを、すごいと思うか、へえ、で終わるか、で、
評価がわかれるんだろうな。
ただ、だれかが言ってたような、「感動のラスト!」ってことは、なかった。


もう1冊はこれ。

文学の器

文学の器

最初、なぜ扶桑社からこんな本が出てるんだろう?と思った。
わたしは扶桑社に就職しそこなった、という哀しい思い出がある。
翻訳の仕事をしながら編集プロダクションで日銭を稼いでいたころのことだ。
採用するには「ちょっと年をとりすぎている」と言われ、ショックだった。
また、(例の)教科書の編集もできますか? とも言われた。
そんなこんなで、結局、就職しそこなって、
でも、つとめていた編集プロダクションをやめてしまったので、
しばらくプラプラしていた。ポルノの翻訳とか、リーディングの仕事で食いつないでいたように記憶している。
そこへ、たまたま今つとめている会社の就職話がまいこんで、
だめもとで試験を受けたら、受かってしまった、というわけだ。
人生はわからない。扶桑社の話がなかったら、わたしは今も、編集プロダクションで参考書をつくりながら、
細々と翻訳の仕事をつづけていたかもしれない。
もしかしたら、翻訳の仕事で大当たりをして、今ごろ売れっ子になっている可能性だって、ないわけではないのだ。
(いうまでもなく、限りなくゼロに近いが。)


この本は、扶桑社の雑誌en-taxiに連載していた、文芸鼎談集である。
対談や鼎談をまとめたことがある人にはわかると思うのだけれど、
対談記事というのは実は、まとめる人(=多くの場合、編集者)の創作だ。
対談をもりあげ、こちらが期待している「いい話」をひきだし、それを決められた紙面に「それらしく」まとめる。
説明的な補足を最小限におさえ、その場の雰囲気をいかに再現するか。
編集者の腕のみせどころ、なのだ。
たまたま今、大好きな作家さんたちの対談をまとめているところなので、
「勉強モード」というほどではないけれど、まあ、参考になるかなあ、と思いながら読み進めた。


それで思ったのは、この連載は、回によってずいぶん温度差があるなあ、ということ。
とくに語り手の思いが強いなあ、と思ったのは色川武大で、
ここで話題になっている『百』という短篇集、早速読んでみよう、と思った。
後藤明生なんかは前にシモキタで聞いた、いとうせいこう奥泉光の漫談のほうが格段におもしろかったし、
江國香織太宰治観はかなり自分に近いのだけれど、対談相手の柳美里が苦手なのでちょっとつらかった。
石原慎太郎は、伊藤整のところは悪くないけど、三島のところはちょっといただけない。
与謝野晶子について高樹のぶ子が語っているのは、結構よかった。


それにしても、こういう本に出てくる人たちって、みんなほんとに賢そうだ。
知識の量もはんぱじゃないし。
すごいなあって、以前は手放しで賞賛できたんだけど、
今は自分がそのような仕事にたずさわっているために、
ついつい我が身をかえりみて、あー、わたしはどうしてこんなに無知で浅はかなんだろうと、
がっくり自己嫌悪におちいったりするのだった。


次は、仕事とはまったくかけはなれた、どきどきわくわく本を読みたいな。