小説の表記はさわってはいけない

以前から時々書いているけれど、
雑誌や教科書、アンソロジー、全集などで行っている表記の統一がとても気になる。
とくに教科書では、読者が児童生徒学生であるということもあり、漢字を段階的に学ぶ途上にあるということで、
「混乱を避けるために」漢字のとじひらきを含めた表記の統一を行うのが一般的だ。
当然ながら、著者や著作権継承者の了承を得て表記をさわるわけだけれど、
著者から文句が出ないからといって(忙しい著者は大量の教科書の許諾など見る暇もないのだろう)、
びっくりするような改変を加えているページに遭遇することが、ままある。


たとえば今日、発見したのは、某人気作家の短篇小説の一人称「僕」を、すべて「ぼく」に変えているというケース。
さらに、「〜のあと」を「〜の後」に、「〜のあいだ」を「〜の間」に、「〜のとき」を「〜の時」に、「かたち」を「形」に、という具合に、
この著者は相当こだわっていると思われるひらがな表記を、すべて漢字に変換。
……こういうことをして、心がいたまないのだろうか。
「後」だの「間」だの「時」だの「形」だのを漢字にしなかったからといって、高校生が「混乱」したりするとでもいうのか。
「僕」を「ぼく」にしてしまったら、登場人物の顔つきまで変わってみえるじゃないか。
やはりどう考えても、小説の表記はさわってはいけない。とくに現代小説は、整理する必要性を感じない。


今日しびれた一節。
   馬車は炎天の下を走り通した。そうして並木をぬけ、長く続いた小豆畑の横を通り、亜麻畑と桑畑の間を揺れつつ森の中へ割り込むと、緑色の森は、漸く溜った馬の額の汗に映って逆さまに揺らめいた。(横光利一「蠅」)


明日あさってと大阪出張。携帯本は何にしようかなー。
今日、アマゾンから古典新訳文庫のオースティン(小尾芙佐訳)をおすすめされちゃったけど、
オースティンはちくまの中野康司訳が気に入っているので、いまのところ浮気するつもりはなし。
やっぱり文庫本がいいかな。読みかけの平野啓一郎を持っていくことにするか。(まだおもしろいかどうかわかんないけど。)