野崎歓さんの回

土曜日、早稲田エクステンションセンターの「古典の愉しみ、新訳の目論み」、
今回の講師はフランス文学の野崎歓さん!
以前、別のシンポジウムで野崎さんのお話を聞き、大ファンになってしまった私。
今回はより近くで野崎さんにお会いできるとあって、かなりドキドキしながら講義の開始を待つ。


いやあ、ほんとにすてきだった。
知的で、ちょっとシャイで、でも本の話になると、ぶわわわあああと夢中になって話すところが、とくに。
「見た目」ももちろんすてきなのだけれど、ちょっとしたしぐさとか、お話の仕方とか、
なんだかぽーっとなってしまうくらい、魅力的な殿方でございました。


……などという、ミーハーな感想はこれくらいにして、講義の内容について。
前半は「翻訳」全般についてのお話。そもそも翻訳とは、というお話で、参考文献を雑誌も含め10冊、挙げてくださったのだけれども、
おおっ。我ながら感動! 1冊をのぞいてすべて既読だった。
どれも、自分が読んだときも、ああ、参考になるなあと思った本ばかりだったので、
なんだか野崎さんと気が合ってるみたいで、ちょっといい気分。
ところがっ。なんとその未読の1冊というのが、当の野崎さんと斎藤兆史さんの共著『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』。
ご、ごめんなさいっ。すぐに読みます!


後半は、野崎さんの個人的な体験について。ここからいよいよ本領発揮、という感じ。
子どもの頃から翻訳がすきだったというお話からはじまって、デビュー作にして大ヒット作『浴室』出版の裏話や、
「ちいさな王子」を訳すことになったいきさつ、カミュ『異邦人』もとい、『よそもの』の文体の選択についてなど、
お話の内容もおもしろかったし、お話の仕方もすごく、魅力的だった。


『異邦人』は、私もあの「きょう、ママンが死んだ。」を、唯一無二の書き出しのように思っていたのだけれど、
たしかにこの訳で読んだせいか、私の中でムルソーのイメージは、ちょっと気取った金持ちのボンボン、となっていて、
どうやらこれはとんでもない勘違いだったようだ。
若い頃、この書き出しにしびれたのは、それはそれでかけがえのないもののような気がするし、
野崎さんもそのこと自体は決して否定しない、と言っていた。
ただ、『異邦人』の文体は、ケインの『郵便配達は……』の文体とよく似ているんです、などと聞いてしまうと、
フランス語を読めない私としては、是非、本来の文体に寄り添った訳で、再読しなくては、と思ってしまうのだった。


そしてこの日の講義のクライマックスは、やっぱり「ちいさな王子」の翻訳の話。
語り手と王子さまが井戸をさがして砂漠をさまよい、とうとう、井戸を発見する場面。
古典新訳文庫の121ページ。


  そうやって歩いていくうちに、明け方、ぼくは井戸を見つけた。


この一行にかける野崎さんの熱い思いをうかがっているうちに、
わたしの中で野崎さんと語り手の「ぼく」がごっちゃになって、
なんだかたまらなく悲しくなり、なんと涙まで出てきてしまった。
参考までに、内藤濯訳。


  こんなことを考えながら歩いていくうちに、ぼくは夜が明けるころ、とうとう井戸を発見しました。


ふうん、別に同じじゃない、と、思う人もいるかもしれない。
でも、わたしは、この一行の話を聞いただけで、連休初日の土曜日に出かけていった甲斐があったと思う。


さて、来週は同じくフランス文学の中条省平さん。
野崎さんが「この訳はすばらしいです」と激賞していたコクトー恐るべき子供たち』が教材。
何しろ、今月刊行分なので、当然ながら未読。
仕方がないので順番をかえて、読書中のワイルドを読み終えたらすぐにコクトーへ進むことにする。