古典新訳文庫『箱舟の航海日誌』

箱舟の航海日誌 (光文社古典新訳文庫)

箱舟の航海日誌 (光文社古典新訳文庫)

読了。
結局最後まで、いまひとつ乗り切れなかった。
おそらく自分の精神状態がいまいちなせいだろう。
帯には「箱舟の中のリアルな生活の情景。」とあるのだけれども、
うーん、そうかな? という気がする。
ただ、「解説」にある、


  ウォーカーはどんな動物にもやさしい視線をむける。
  「下品」なカバも、「育ちのよい淑女」のゾウも、おっちょこちょいのサルも、
  気弱なへっぽこ詩人のナナジュナナも、自力では坂も越えられない無力なフワコロ=ドンも、
  みなそれぞれの役割を与えられ、りっぱに演じきる。
  (244ページ)


については、まったく同感。動物たちの造型が生き生きしているのは間違いない。


後半、悪の化身であるスカブが活躍するようになると、物語としては俄然、面白くなる。
ナナジュナナが空のトウミツの樽に乗って去っていく場面は圧巻。
191ページの挿絵もとてもいい。
どうでもいいようなことだけれども、わたしの好きな動物は、フワコロ=ドン。
最後の20ページほどは、フワコロ=ドンがどうなるのか心配で、心配で、
そのことばかり考えながら最後まで読みきった。


翻訳のこと。
「イギリスに住んでいた七歳のころ」に原書を読んだという訳者は、
英語の単語や文体のもつ独特の香りを、肌で感じながら訳せるくらい、英語ができるにちがいない。
だからこそ、「訳者あとがき」にあるように、「動物たちの口調を工夫するのは楽しい作業」で、
それっぽく訳すために、ある動物には関西弁、ある動物には「〜ですもの。」という話し方を割り振ったのだろう。
ノア老人はお約束のように「〜じゃの。」「〜じゃよ。」と話す。
児童文学の翻訳は、こういうタイプの翻訳が多いのかもしれないけれども、
わたしはどちらかというと、もう少しふつうに訳すほうが好きかな。


以前にここで書いた、「小説すばる6月号」に掲載されたYAの短編がいまひとつぴんとこなかったのも、
ひとつには文体の問題があった。
思春期の女の子の一人称小説となると、判で押したように、
「あたしは……してた。」「……ってやつ。」「なんか笑っちゃう。」「マジで最高だった。」
というような文体で訳されている。
で、たぶん原文の文体をうまく写し取っているのだろうけれども、
こういう日本語は、じつはとても危険で、翻訳者自身(や翻訳者の身近な人)の話し言葉の影響をまともに受けているので、
読者の側からすると、自分のもっている「自然な話し言葉」のイメージからちょっとでも離れていると、
なんとなく違和感をもつんじゃないかなと思う。
だから、翻訳の日本語の文体というのは、やや控えめ、やや保守的、くらいにしておいたほうがいいような気がする。


まあ、これも、人によって違うのだろうけれども。
何しろわたしはあの「名訳」といわれた野崎孝の「ライ麦畑でつかまえて」を思春期に読み、
文体がたえられず途中で挫折したのだけれども、
大人になってからペーパーバックで読んだときにはものすごくおもしろくて、
ああ、わたしには野崎さんの訳が合わなかったんだなあ、と思ったという経験があるので、
くせのある口語っぽい訳文が、ちょっと苦手なタイプなのかもしれない。


あらためて『箱舟の航海日誌』について。
翻訳の文体がわたしには合わなかった、というだけで、読みにくいとか悪訳だとかいうつもりはまったくない。
また、「解説」がとてもよかった。とくにラスト。


   イノセンスを奪おうとする輪郭の定まらない悪を前に、わたしたち読者はなすすべもなく立ちつくす。
   愚かさと無垢の表象であるナナジュナナが地表から姿を消しても、やはりなお世界はつづいていく。
   スカブの末裔たちの跳梁に歯止めをかけるすべもなく。(254−255ページ)


さて、古典新訳文庫の次の一冊は、ブッツァーティ『神を見た犬』。
翻訳ものばかり読みつづけるとくたびれるので、
同居人から借りた、吉田司宮澤賢治殺人事件』でも読もうかな。