丘沢静也さんの回

ここ数ヶ月、何よりも楽しみにしていた早稲田大学エクステンションセンターの講座、
「古典の愉しみ、新訳の目論み」が、ついに今日、最終回。
講師はケストナー飛ぶ教室』を翻訳している丘沢さんだった。


なんと最終回だというのに、5分ほど遅刻。あわてて教室に入ると、なぜか先生は音楽の話をしていた。
黒板には「ピリオド奏法 相手の流儀をまず尊重する」との文字。
翻訳をするときの姿勢のようなお話なのだろうとあたりをつけていると、先生はいきなり、教室でCDをかける。
ベートーベンの第五をバーンスタインガーディナーで聴く。


続いて、『飛ぶ教室』に関連して、アリエスの「子供の誕生」や、ルソー、ペスタロッチの子ども観など、
大学の頃習ったなあ、教員採用試験の勉強をしているとき読んだなあ、というような、なつかしいお話。


後半、現在「古典新訳文庫」のために訳出中という(楽しみだ!)カフカ『変身』の翻訳比較。
やっぱり、こういう話がいちばんおもしろい。
ある既訳について、「わかりやすい訳で人気があるけれども、カフカに対して礼儀を欠いている」と辛口のコメント。
また、「繰り返しの意図的な使用」の効果について話し、「繰り返しを避けましょう」という国語の作文教育を批判。


丘沢先生は、見た目柔和な感じで、「やさしいおじさん」風なのだけれども、
じつは、授業は今までの先生の中でいちばん、受講者に「やさしくない」授業だった。
プリントを見ながらゲーテ「魔王」カフカ「変身」について話をするのだけれども、
先生はどんどん(脱線も含めて)進んでいって、いちいち「何行目です」とか説明しないので、ちょっと油断すると、
どこをやっているのか、すぐにわからなくなってしまう。
置いてけぼりにならないように、必死についていっているうちに、あっという間に時間は過ぎて、終了となった。
それで思ったのだけれど、そういえば80年代の大学の「いい授業」って、こういう感じだったような気がする。
先生は学生が講義を理解できているかどうかなんておかまいなしで、どんどん知識と教養を放出して、
学生であるこちらは理解できない自分が悔しいから、必死についていこうとして授業が終わるとへとへとになったものだ。
奇しくも丘沢さんは「飛ぶ教室」のあとがきに、「さらば猫なで声」というタイトルをつけ、
「子ども」「わかりやすさ」を配慮しすぎることの危険性を指摘している。


  もしも、わからないことがあれば、「わからなさ」をかかえて暮らしていけばいい。
  どうしても知りたくなったら、自分で調べればいい。


最終回にふさわしい、「大人向けの」授業だった。