中条省平さんの回

「古典の愉しみ、新訳の目論み」、今日の講演者はフランス文学の中条さん。
古典新訳文庫ではバタイユコクトーを訳している。
講義のはじめにハンドアウトが配られ、この講義で初めて、原文のコピーが配られた。
うわあ、フランス語だ! だいじょうぶだろうか。


という心配は、杞憂だった。
入ってきた中条さんは、ものすごく話がうまい。
「機関銃のように」という表現がまさにぴったりの、ものすごい早口で、
脱線するときも、前触れもなくするすると脱線していって、気がつくとまた本筋に戻っている。
今までの講師の中ではいちばん口が悪いというか、毒舌というか、歯にきぬきせぬというか、
とにかく、言いたいことをずばずば言う方だったけれども、
それは決していぢわるな感じじゃなくて、どことなくユーモラスであたたかみがあった。


講義は、大きく分ければ、前半、バタイユの話。後半、コクトーの話。
バタイユについては、当然、生田訳との比較になるのだけれども、
生田訳は偉大である、ということを大前提に、話は進んだ。
生田訳とのいちばん大きな違いである、文体の選択について、
中条さんは、谷崎潤一郎の作品を複数あげて、イメージを語った。
そして翻訳という作業について、原文そのままのレベルと、それが何を意味しているのかという解釈のレベルの間で、
ぎりぎりのバランスをとる、という「手作業的な感覚のしごと」だと。


コクトーについては、原文と東郷青児訳、鈴木力衛訳、佐藤朔訳などと、自身の訳とを並べて、
「どれがいいとか悪いとかいうつもりではありません」とか言いつつ、
かなりバサバサと他の訳を斬ってました!!でも、これが、語り口がおかしくて、
「……って東郷さん訳してますけど、これ、原文にはどこにも、書いてませんねえ」
「……って、これまた、書いてませんねえ」
「……って、原文のどこに書いてあるんでしょうねえ、つくってますねえ」
という調子なので、翻訳批判にも悪口にも聞こえない。
あえていえば、近所の奥様連中の井戸端会議風とでも言おうか。


この感じ、だれかに似ているなあと思って、思い出したのが、G・スウィフトの翻訳などをされている、真野泰さん。
この方も見た目とっても「紳士」なのに、翻訳について語るとすごい毒舌&饒舌で、
ある有名な翻訳家の誤訳を指摘するのに、身振り手振りで熱弁をふるっているのを見かけたことがあり、
そのときも、人が人を批判するときにつきものの「いやあな感じ」はまるで感じられず、
むしろ翻訳という作業や翻訳家という仕事に対する愛情と情熱ばかりが伝わってきて、
ほんわかとした気分になったと記憶している。


中条さんは、「人の訳を丁寧に見ていくと、なぜそういうふうに訳したか、
その人の気持ち、心の動きが、手にとるようにわかる」
と言っていた。そして、最後に、
「翻訳は人間のすべての能力を駆使する仕事です」と語り終えたとき、
それまでのおちゃらけた感じが、ちょっとだけ、引き締まった、あらたまった雰囲気になって、
ああ、やっぱり「先生」なんだなあ、カッコイイなあ、と思った。


中条さんによれば、フランス語は基礎文法を1年くらいかけてマスターすれば、
あとは辞書片手に、17世紀以降のフランス語の文章は、普通、読めるのだそうだ。
そういえば、大学2年のとき、サガンの「悲しみよ こんにちは」を授業で読んだような気がする。
うーん、今からでも勉強すれば、原書で読めるようになるかな……