『エリザベスの友達』読了

ここのところ「当たり」続きで好調の読書、今読み終わった村田喜代子『エリザベスの友達』も、心から読んでよかった、と思える小説だった。そして、わたしにとって、今まさに読むべき小説だった。

 

もともとわたしがこの本を読もうと思ったのは、村田喜代子好きの同居人が買ってきたこの本の最後に載っていて、著者が「作品執筆の強い契機になった」と書いている、松村由利子の短歌が、心にずどんと入ってきたからだ。同居人は貸してくれると言ったけど、この本は自分の本として持っておきたくなるような気がして、ちゃんと自分用に書店で買ってきた。だからうちにはこの本は2冊ある。

 

地方都市の老人施設を舞台に、そこで暮らす認知症のお年寄りと見舞う家族の日常を、淡々とした筆致で描く、あらすじとしては地味な小説。でも、おばあさんたちが行き来している幻のような過去と現在が交互に描かれていくスタイルは、小説ならではの醍醐味をたっぷりと味わわせてくれる。過去と現在の切り替わりは故意に曖昧に描かれていて、おばあさんたちにとっては、いま目の前に見えている過去こそが現実なのだということが、じわじわと胸に迫ってくる。

 

認知症介護の実態やその先にある死も当然描かれるのだけれど、介護士さんたちも家族も、そしてお年寄りたちも、どこかユーモラスで少し哀しく、読後感は温かい。戦中戦後の混乱期を生きた祖母や母の人生にも、いろいろな記憶の断片が詰まっているに違いなく、どんなふうだったか元気なうちに聞いておきたいというような、ノンフィクション的な興味もないことはないのだけれど、本書の読後感としてはそれは野暮かなと思う。高齢の両親がこの先認知症になるにしてもならないにしても、どうか幸せな記憶を抱いて過ごしてほしい。そして自分も、年をとってそのときがきたら、きっと妹がむかえにきてくれると思う。この文章を書きながら、妹とタオルケットや毛布をドレスに見立てて、母の蔵書の世界文学全集から名前をもらって、お互いを「ミッチェル」「マーガレット」などと呼び合っていたことを、突然思い出した。

エリザベスの友達

エリザベスの友達