最近あったこと

まずい。このままだとブログを書く習慣がなくなってしまう。
別に前みたいに死ぬほど忙しいというわけではないし、
書きたいことがないわけでもない。
むしろ、書きたいことや書くべきことがありすぎて、
「まとまった時間ができたら……」なんて思っているうちに、
日が経ってしまう、というパターンのやつや〜。


なので、とりあえずメモ書き程度に、ここ数日のできごとを記しておこう。
まずは先週、長野の湯田中温泉というところに行き、大江健三郎『水死』を読了。

水死 (100周年書き下ろし)

水死 (100周年書き下ろし)

大変おもしろかった。ぜひ感想を書きたいのだけれど、やはりちゃちゃっと書く、というわけにもいかず、
「だれかわたしに解説して〜」という気分もあり、
なかなか書き始められない。
三浦雅士毎日新聞の書評はあらすじ紹介だったし、
「新潮」の町田康の書評は、前半が小説と関係のない話だった。
「文学界」の三浦雅士の評論は分量もたっぷりとあって、さすがに面白いのだけれど、
毎日の書評と同じで、最終的には障害のある息子アカリの存在感、ってところを強調していて、
わたしの読後感とはちょっとちがうな〜という印象なのだった。
わたしは中盤の「死んだ犬を投げる」芝居の話が強烈に心に残っていて、
この劇団が漱石の「こころ」の芝居をやる、という場面なんて、
最近にないくらい熱中して読んだので、目が乾いて痛くなったほどだ。
それから、話としてはもちろん、主人公の老作家長江の父、長江、アカリという、男三代の物語がメインなのだろうが、
長江の母、長江の妹アサ、そしてこの小説の女主人公ともいうべき若き女優ウナイコ、という三人の女性を中心に、
ウナイコの影のようにいつも付き添っている女性や、元教育界の重鎮である夫を支えるウナイコの伯母など、
さまざまな世代、さまざまな育ち方をし、さまざまな生き方を選んでいる女たちの物語としても読めて、
まったく飽きさせない。
さらにさらに、大江本人とおぼしき主人公長江が年をとり、体調や経済に不安を感じる様子がさかんに書かれているのだが、
それが実に切実で、えー、ノーベル賞作家がお金の心配ってことはないでしょ−、と思うのだけれど、
純文学の世界って、案外そんなものなのかもしれない。
町田康はこの主人公の姿を「困っている」と書いているけれど、たしかに、この「困っているボク」というのが、
いいんだなあ、やっぱり。
はるか昔、『個人的な体験』を読んだときのことを思い出した。
つまりこれって、究極の「だめ男小説」なのね。
だめ男好き(だけどダメンズウォーカーじゃないの)のわたしがおもしろく読めるのは、当然といえば当然か。
いやあ、こんなにおもしろかったんだから、もっとちゃんと感想を書きたいのだけれど、これ以上は無理だ。
家に帰ってから同居人に、まるで自分が発見したみたいに、
「なんかさあ、この小説って、フォークナーみたいなんだよ」と言ったら、
「そんなこと、みんな知ってるよ」とせせら笑われた。くすん。


今日はなんとも文化的な一日だった。
午後いちばんで国立能楽堂に行き、伝統芸能に詳しいダンディなおじさまとお会いした。
一時間ほどお話をうかがって、上機嫌で帰社し、
夕方から詩人や歌人、文芸評論家の方々と(考えてみたらすごいことだ!)編集会議。
なかなか個性的な人々が集まって、かなり縛りの多い仕事をしているので、
司会者である自分は、なんだかつまらないほうへ、つまらないほうへと議論を進めているような気がして、
ちょっとげんなりする。
帰宅してから気を取り直し、自宅の書棚からあれこれと詩集をとりだす。
鮎川信夫田村隆一、辻征夫……。
キライだと思っていた吉野弘の詩集がなぜかあった。
ここに収録されている「祝婚歌」という詩にまつわる複数の思い出が、瞬時によみがえった。うう。


どうでもいいことだけど、わたしは詩を読んだり書いたりする男の人が好きだ。
でも、詩を読んだり書いたりする女の人は、じつはちょっと苦手。なんでかなあ。
そうとう眠くなってきた。そろそろ限界。
まだまだ書きたいことがあるような気がするんだけど、今日は、おしまい。