『百年の孤独』読了ほか

このままブログをやめてしまうのか? というくらい長いこと更新をさぼってしまった。
こんな個人的なブログでも、しばらく書かないと書き方を忘れるというか、
書くことへのハードルがどんどんあがってしまって、
書き始めるのがなかなかしんどくなる。
ましてや紀伊国屋の書評ブログのようなちゃんとしたブログとかは、
いったん間があいてしまうと再開するまでに相当な努力を要するのだろう。
それはわかっているのだけれど、楽しみにしている書評者が更新をしてくれないと、読者としてはがっかりだ。
ええ〜?!というような、書評とはとても言えないような、誤字脱字だらけの文章が載っていたりすると、
やっぱりウェブじゃなくて新聞や雑誌の書評のほうがいいのかなあ…なんて、つい思ってしまったりして。

それはともかく、自分のブログについては初心に戻って、
本を読了したらそのことだけは例外をつくらずまめに書く、というのだけは実行しよう、と思う。
で、最近の読了本のうち、なんといってもやっぱりすごかったのは、
ガルシア=マルケス百年の孤独』だ。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

冒頭から100ページ目くらいまで、文字通り身動きもせずに夢中になって読んだ。
同じ名前が繰り返し出てくるし、いろいろな細かい情報が雑多に書き込まれていて、
どれが重要な(伏線的な)情報なのかわからないから、いやでも集中せざるを得ないのだ。
とにかくこのマコンドという村やブエンディア一族のようすが少しずつ頭に入ってきて、
自分もその中で生きているような錯覚におちいり、
でもそこではちょっとあり得ないような出来事が普通に起きるので、
これってSF? とか思って軽い違和感をもちながら読み進めた。
同じような名前の登場人物が次から次へと生まれ、最初のページにある系図を参照しながら、
あ、この人はこの人のおばさんにあたるのね、で、この人のお父さんはこの人、
あれ、そうするとこの人とこの人は、血のつながりがあるってことね、などと発見する。
そして中盤にさしかかると、自由奔放に書かれているように見えるこの物語が、
じつはすごく周到に、あちこちに伏線をめぐらして、そういう小さな伏線に読者が気づけば気づいたでいいし、
気づかなくても別にいいよ、というような、太っ腹な精神で書かれている、ということに気づく。
300ページを過ぎたあたりで、少し飽きてきた。読み疲れたというのもあるかもしれない。
同じ話の繰り返しのような気がして、伏線の発見も、だんだんどうでもよくなってくる。
読めば読むほど不思議なことが増えて、これはSFというより昔話に近いんだな、と思う。
細部が大人向け(エロかったりグロかったり)だから大人の小説だけど、
枠組みは日本むかし話みたいなものだなと。
途中で、この世のものとは思えないような美貌の登場人物が、かぐや姫よろしく昇天するし。
で、ちょっと疲れてきたけどここまで読んだんだからもちろん最後まで読もうとがんばっていると、
スト20ページほどで、がつーん、ときた。
ネタバレになるとまずいので何も書かないが、いやあ、やっぱりこれはすごい小説だ。
あの話も、この話も、ああ、こんなふうにラストを描くために、作者がしくんだ伏線だった。降参!


百年の孤独』の読書の合間に、ちゃかちゃかっと読んだのは、この本。

電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)

電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)

前にもちょっと書いたけれど、わたしは新書のベストセラーというのを案外信用している。
小説のベストセラーは、先日の『告白』みたいにがっかりすることが結構あるのだけれど、
たとえば情報論やメディア論、ビジネス本や生き方本などは、同じようなテーマの本が量産されている中で、
正直、げーっというようなひどい本に出会うこともある。
そんなとき、とりあえず売れてる本っていうのは、あまりハズレがないのだ。
ITが苦手なわたしがわりあい早くブログをやってみようと思ったのは、
梅田望夫ウェブ進化論』を読んだからだし、
養老さんの『バカの壁』だって、勝間さんの『お金は銀行に預けるな』だって、
やっぱり類書よりはるかにおもしろく書かれているんだよね。

で、この本。
いまやすっかり「金属の板」と化しているけれども、わりと早い時期に「キンドル」を購入したわたしとしては、
キンドルipadなどの電子書籍と、出版業界の今後、というのは、興味がないはずがない。
こういうテーマの新書にありがちな、やたらと危機感をあおったり、説教くさくなったりせずに、
データや経験に基づいて比較的淡々と論を進めているので好感をもった。
徹底して音楽の例が出てくるのも、専門家や詳しい人にはちょっとうるさいかもしれないけれど、
わたしにはこれくらい丁寧でシンプルなほうがわかりやすい。
(ただ、大手出版社の編集者に対する偏見だけは、ちょっとどうかな、と思った。
今どき、銀座の文壇バーで、「一部のベストセラー作家に営業マンのようにみんなでぶら下がり、
お互いが抜け駆けしないように毎日全員で呑み歩きながら、順番に本を書いてもらう」(237ページ)
なんて編集者が、そうそういるとは思えない。
「もちろん、いまでも優秀な編集者や良い小出版社はたくさんあります」と後から書いているけれど、
大手出版社の編集者の堕落ぶりへの言及はかなり感情的な印象があり、
他の部分が丁寧に冷静に書かれているだけに、残念な感じがした。)


この本の後半で、ブログでの本の紹介に触発されて読んだ本がとてもよかった、という話が出てくる。
これは、ほんとうにそうだなあ、と思う。
たしかにわたしの本の選び方も、ブログやアマゾンの登場で少し変わった。
お気に入りのブロガーが絶賛している本を読んでみることは多いし、
アマゾンの「おすすめ」にのせられて、ぷちっと購入してしまうこともしばしば。
だからといって、新聞や雑誌の書評をまったく読まなくなったわけでも、
書店をぶらぶらと歩いて、装幀やタイトル、帯などを見て買うことがなくなったわけでもない。
本を読むことと同じくらい(それ以上?)本を買う(選ぶ)のは楽しいので、
そのための情報源が増えた、と考えれば、喜ばしいことだ。


キンドルは英語だけだったけれど、日本語版キンドルや日本語版ipad で本が読めるようになったら、
わたしは電子書籍を読むだろうか。
まず新聞・雑誌については、おそらく答えはYES。キンドルなみに見やすくて軽くて購読がスムースなら、
新聞・雑誌はできるかぎり電子ですまそうとすると思う。
書籍については、たぶんモノによる。
たとえば今日感想を書いている二冊のうち、
百年の孤独』は紙で、『電子書籍の衝撃』は電子で、というふうに、
使い分けるんじゃないか。


出版社につとめて給料を得ているのに、そんなことでいいのか、
もっと紙媒体を守ろうとするべきじゃないか、という声が聞こえてきそうだ。
銀座の文壇バーなどのぞいたこともない弱小出版社のサラリーマン編集者ではあるが、
こと読書に関していうと、出版社の人間としての立場より、一読者としての気分のほうが、
どうも強いような気がする。
まあ、たしかに、もし昨年編集を担当した児童文学のセレクション(装幀、イラストなども、とても気に入っている)を、
「予算の関係で電子書籍のみの刊行にします」なんて言われたら、ボーゼンとしそうだけれど。