70年代生まれの女たち

福岡の出張は無事終了。わたしが編集している本について興味を持っている方々と話をする、という機会なので、これがおもしろくないはずはない。もちろん、批判的な意見もあるし、懇親会などでは脱線もする。でも、実はいちばんおもしろいのは、批判的な意見や脱線の部分だ。小説や詩歌や評論のよしあしについて話をしていて、「この本の読者にとっての価値」について話すのは本筋、「自分にとっての価値」について話すのは、まあ、脱線といっていいだろう。脱線の部分で豊かなことばをもっている人と出会うと、わたしはいつも軽い「恋愛モード」に入る。もっと話を聞きたいと思って、ばしばし質問をする。曖昧な表現で理解できないと、「すみません、そこのところもう少し詳しく話してください」と言う。そうやって相手がふだんは隠している部分を、なんとかして見たいと思うのだ。深くつっこんでいけばいくほど、もっともっと知りたくなる相手もいれば、そうでもない相手もいる。今回福岡で出会った人は、あきらかに前者だ。もう一度会ってもっと話をしてみたいと思う。おそらくもう会うことはないだろうが。


さて、出張中に井上健『文豪の翻訳』は読了。とてもおもしろかった。文学作品の翻訳ということについて、これだけきちんと調べて、深く考えて、なおかつ一般の人にもわかるような言葉で書いている、という点に敬意を表したい。翻訳については、この本と一緒に買ったホーガン『星を継ぐもの』(池央耿訳)と、思うところあって今日購入した鴻巣友季子『全身翻訳家』とを読んでから書きたいと思うので、今日のところは井上先生の本についての感想はこれくらいにしておく。


朝日の朝刊、斎藤美奈子文芸時評を読んだ。上野千鶴子の最終講義と川上未映子の「いつも真夜中の恋人たち」は、わたしも興味深く読んだし、このブログでも感想のようなものを書いた。そのときわたしは、上野のいう「逃げよ、生き延びよ」というメッセージ、女は弱者である、というくくりが、今の若い人たちに受け入れられるのかな、という素朴な疑問を書いた。でも、先週の津村記久子読書体験を経て、ああ、上野先生はこの世代の女性たちのことも、ちゃんとわかっているのだな、とあらためて思ったのだ。上野さん世代のフェミニストたちががんばってくれたおかげで、わたしたち均等法一期生が望んでも得られなかったことが着々と実現していった。少なくとも制度上は、妊娠出産育児に対する配慮が完璧に整いつつある。男性社員と同じ条件で働き、女性だけに課せられる仕事なんてない。(昔はあったのだ、お茶くみ、机ふき、接待のお酌、等々。)素直に、恵まれているなあ、と思う。


――それなのに、なぜ、津村作品の働く女性たちは、あんなにつらそうなんだ。金原ひとみの小説の登場人物はなぜ、「結婚も子どもも、全部選んでしたことだったのに、全然幸せじゃない」という事態に陥ってしまうのか。彼女たちはやはり、「弱者」なのだろうか。そんなことをつらつらと考えていたとき、以前立ち読みした新書のタイトルが頭によみがえった。『バブル女は「死ねばいい」』。ずいぶん刺激的なタイトルだ。もしかしたら何かわかるかもしれない、と思い、吉祥寺パルコの書店で購入。喫茶店などで一気に読み終えた。

バブル女は「死ねばいい」 婚活、アラフォー(笑) (光文社新書)

バブル女は「死ねばいい」 婚活、アラフォー(笑) (光文社新書)


タイトルどおり、バブル世代(1960年代後半生まれ)の女性たちに対する、団塊ジュニア(1970年代以降生まれ)の女性たちの敵意と憎しみにあふれた本である。正直言って、著者の所属する団塊ジュニア女性には多様性を認めているのに対し、「バブル女」は一色で描かれていて、ちょっとどうかな、と思う。でも、バブル期にお嬢さん大学を卒業し、縁故で一流企業に就職、という所までは、典型的な「バブル女」であるわたしとしては、著者の指摘がぐさりと突き刺さることも多い。たとえば、バブル女が忘年会でフラダンスを踊ったというエピソードを紹介し、「30代女性社員はみんな凍りついていました。末席にいた男性新入社員が顔を歪ませたり、「帰りたい」とつぶやいていた。」と記したあとで、バブル女の仲間たちは、彼女のがんばりを心から賞賛している、と述べている。


   そう、バブル女はがんばるのが大好きである。
   バブル時代は頭を使わなくてもがんばれば結果が出た。なので、頭を使わず、とにかくがんばることに価値があると信じているのである。
   また、「飲みニュケーション」文化を最後に経験した世代なので、会社の飲み会で芸をすることで評価が上がると思っているのだ。
   なので、上司から「何か芸をやれ」と言われたら、居酒屋の座敷で半裸になって踊る。(72-73ページ)


うーん、手厳しい。けど、この感じ、よくわかる。わたしはもちろん、こんな芸はやらないけれど、この「ガンバリズム」(死語だ)は理解できる。そして、団塊ジュニアたちの冷ややかな視線も。結局、目上の人たち(たいていの場合100パーセント男性だ)の期待にこたえようとする気持ちが強いということなのだけれど、そのことの何が悪いのだろうか。バブル女はお金と権力が大好きで、これらを持っている年上の男性にすりよっていく、という作者の見方はあまりにステレオタイプで、お嬢さん、わかってないね、と言いたくなる。少なくともわたしは、年上の男性たちのお金や権力にはまったく興味がない。でも、いつだって彼らの期待にこたえたいと思っていた。いい子だね、がんばってるね、と褒めてもらいたい、という気持ちを、ずーっと持ち続けているような気がする。そのことが、団塊ジュニアたちには「媚びている」というふうに映るのだろう。


そういえば、と思い当たった。わたしのこれまでの人生で、もっとも激しくわたしを嫌悪し、敵視し、批判した女性は、この作者と同世代、もしかしたら同い年くらいなのではないか、と。個人的なことなのであまり詳しくは書けないが、彼女のわたしに対する批判が爆発したのは、ある接待の飲み会の直後だった。取引先との飲み会で、相手の男性たちがセクハラめいた発言をしていたのはたしかだ。でも、当時のわたしの感覚では、この程度のセクハラ話は適当にあしらって、取引先にはいい気分で帰っていただくのが、まあ、仕事のうち、と思っていた。だが、団塊ジュニアの彼女からすると、わたしのそういう態度が、許しがたいものにうつったのだろう。その事件の前にも一度、「あなたは社会と折り合ってきた人だと思うけれど、わたしはあなたのそういうところが嫌いだ」とはっきり言われたことがある。彼女とは完全に喧嘩別れになってしまった。当時のわたしは、なぜ彼女がそんなに怒るのかよくわからなかった。セクハラに対して過敏なのだろう、という程度の認識だったのかもしれない。でも、だんだんわかってきたのは、わたしの性格や生き方に対する、もっと根本的な嫌悪感があった、ということだ。「恵まれた環境でぬくぬく育ったあなたにはわからない」と彼女は言った。彼女がかかえていた内面の葛藤は、津村作品の登場人物たちの心の重荷に通じるものがあるように思う。わたしには、そのような内面の葛藤はない。両親に愛されて育ち、友人に恵まれ、不幸な恋愛体験や性体験もない。右肩あがりの社会の中で、仕事でも恋愛や結婚でも、がんばればたいていのものは手に入る、と信じていたような気もする。そして体にしみこんだその感覚は、中年になり、世の中が変わっても、容易に消散するものではない。そしてこの本の作者はこの感覚を、「バブル女の万能感」と呼び、冷笑するのだ。


紀伊國屋書評空間で、1971年生まれの大学准教授、大串尚代氏の書評(二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密」)を興味深く読んだ。冒頭に囲みで紹介している引用について、ぴんとこない人はそのままで十分幸せに生きていけるのだそうだ。はい、わたしはまったくぴんときませんでした。もちろん、「愛されたい」という気持ちが空回りして、がんばればがんばるほど相手の気持ちが遠のいていく、という経験はある。だから、そういう気持ちを「がんばって」抑えて、相手が望むようにしよう、と考える。ほっといてほしいのかな、と思えばほっておくし、話しかけてほしいのかな、と思ったら話しかける。そうだ、思い出した。わたしと同い年の作家、吉本ばななの小説の主人公は、カツ丼をもって走るではないか(「キッチン」)。母をなくした恋人に、ささやくように話しかけるではないか(「バブーシュカ」)。大串氏の書評のキーワードは「自己肯定感」で、これが欠如していることが不幸な恋愛につながる、という著者の言葉に、大串氏は自らの体験を率直にふりかえりつつ共感する。そうか、言われてみればわたしは、あつかましいほどに「自己肯定感」にあふれている。これは言うまでもなく、うぬぼれが強い、というのとは違う。だめなところももちろんいっぱいあるけど、でもこのままのわたしで、オッケーよ、という感覚。だいじょうぶ、がんばればなんとかなる、という楽観。これは、上記の「(バブル女の)万能感」と合い通じるものがあるのではないか。

もちろん、なんでもかんでも世代論で分析できるはずはない。同居人からも、「あなたは世代論が好きだね」とやや軽蔑するように言われた。でも、この三十年ほどの間に社会はいろいろ変化したけれど、もっとも大きく変化したのは、女性の生き方や価値観なんじゃないか、と思う。わずか六、七年ほどの差なのに、「バブル女」vs.「団塊ジュニア女」の対立がある。バブル女であるわたしは、たしかに年上の魅力的な男性に弱いし、はたから見ると媚び媚びなのかもしれない。最近は自分が年をとってきたせいもあり、年下でも魅力的な男性が増えた。「イタイ」と思われない程度に感じよく、愛想よく接したいものだ、と思う。さらに、数は少ないが年上の女性たちに愛されたいと思うし、圧倒的多数の年下女性たちにも嫌われたくない。津村記久子が、杉浦由美子が投げつけてくるむき出しの敵意に、どう対処したらよいのだろう。


明日からの携帯本は、1967年生まれの作者、角田光代の短篇集『ドラママチ』。続けて、この『ドラママチ』の解説も書いている、おそらくわたしと同世代の翻訳家、鴻巣友季子のエッセイ『全身翻訳家』。