文芸誌読書は好調

この一週間ほどのあいだに、いろいろなことがあった。
仕事はひと段落したのだけれど、公私ともにざわざわと落ち着かない日々が続いている。
そんな中で読了した本2冊。
どちらも悪くはなかったがさほど心に残らなかった、というのが正直な感想。

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

本は、これから (岩波新書)

本は、これから (岩波新書)

こちらの精神状態が落ち着かないせいもあるのかもしれない。


一方で、おとといから読み始めた文芸誌の読書は好調。
角田光代のお気に入りの連載がのっている「新潮」から読み始めた。
冒頭の西村賢太は残念ながら△。
たとえば、同棲している女性が年越しそばのだしをとっていることに感心したのも束の間、
味が薄い、出来合いの海老を使った、といって、罵倒し始めたりする場面。
たしかにうまい。不愉快とユーモラスのぎりぎりの線を絶妙なバランスでわたっている感じ。
たいていの男読者にとっては、不愉快になる要素なんてないだろうなあと思う。
でもわたしは、いっしょに暮らしている男を喜ばせようとして、
料理上手なわけでもないのに鰹節でだしをとろうとして失敗しちゃった彼女が不憫で、
主人公の男に対する怒りや嫌悪感でいっぱいになるのだが、
さらに厄介なのはそのマイナスの気分の中にうっすらと、
「男」という生き物全般に対する嫌悪感のようなものが溜まってくるということだ。
つまり、周囲の男の人たちはジェントルマンなので「罵倒」などはしないけれど、
内心で思っていることは大差ないんじゃないか。
だからこそ西村作品の主人公が気の利かない不美人な女を罵倒しはじめると「ブラボー!」と喜ぶ…。


   「馬鹿女め、鰹節を無駄にしやがって! こんなの、市販のものを買った方がよっぽど安上がりにできたじゃねえか。
    何考えてやがんだ」
   「…………」
   「桃屋の、希釈タイプの壜詰めので作れば、こんなつまらん失敗はしねえんだし、またその為にそう云う商品がこの世に出廻っているんだろうが。
    間尺に合わねえ奴め。カネも手間も、まるで無駄にしやがる!」
   「…………」
   「だいたいよ、これだけさんざ無駄な手数をかけといて、それでどうして天ぷらのほうは惣菜コーナーの出来合いものなんだよ。……」
   (18ページ)


このあとも延々と罵倒が続くのだが、わたしがいちばん傷つくのは、「馬鹿女め」とか「間尺に合わねえ奴め」とかじゃなくて、
桃屋の、希釈タイプの壜詰めので作れば……」とか、「どうして天ぷらのほうは……」といったくだりだ。
そうなのだ、女性たちの多くは、いや、少なくともわたしは、
桃屋の壜詰めより鰹節のだしのほうが「えらい」と思っている。
丸美屋の麻婆豆腐のもとで作るより、香味野菜のみじん切りと豆板醤で作るほうが「えらい」と思っている。
だから、鰹節のだしをとったときのちょっと誇らしげな気分や、それが失敗しちゃったときのしょんぼりする感じが、
すごくよくわかるのだ。
なんだか書いてるうちに悲しくなってきたので、もうやめよう。
とにかく、こういう個人的な事情で、西村賢太の「寒灯」は△。


その次の小山田浩子「いこぼれのむし」は、大変おもしろかった。
大手企業に勤める女性たちの人間模様を描いたもので、
心を病んでいく地味な正社員の女性を主人公に、
派遣社員、女性管理職、派手めなOLなど、登場人物の設定はドラマのシナリオみたいなんだけど、
これはまともな「小説」だと思った。
女性たちの会話や行動、心理描写などはものすごくリアリティーがあって、読ませる。
それぞれの女性たちの弱さとか哀しさとかがじんわりと出てくるのは、描写が丁寧だからだろう。
島尾敏雄の「死の棘」を読んでたときみたいに、
主人公といっしょに自分も追い詰められていくような感じがして、実際に気分が悪くなった。
「気分が悪くなった」くせに「大変おもしろかった」という感想もおかしなものだが、
小説を読むっていうのは、そういうことだろう。
作者は1983年生まれの新人らしいので、これからもこの作家の作品は読んでみるつもり。


ついさっき、「文學界」の巻頭、津村節子「紅梅」を読み終えた。
作家である夫が癌におかされ、なくなるまでの闘病の日々を描いた「小説」だが、
夫妻の住む家の様子や、登場する知人などを含め、ほとんど「ノンフィクション」と言っていいだろう。
日誌のように淡々と書いていて、涙をさそう場面はあまりないようなのだけれど、
臨終の場面で、妻が夫に叫んだ言葉が、「愛してるわ」でも「私もすぐ行くから」でもなく、
「あなたは、世界で最高の作家よ!」だったというくだりは、たぶん事実なのだろう。
そしてそこに書いているとおり、
作者は自分が叫んだ言葉をあとになってから娘に聞かされ、
ほんとうに「何ということだろう」と驚きあきれたに違いない。
作者は自らを「情の薄い妻」だと責める。そんなことはないじゃない。
夫婦にはそれぞれの形があるし、歴史がある。
夫が息をひきとったあと、妻は夫の髭を剃ってやる。
   眼鏡をはずしている夫は、髭を剃ると、頬のこけた、
   育子が初めて文芸部にはいったときの夫そのままの顔になった。(80ページ)
この2行に涙、涙。