松之山温泉で『狂うひと』を読む

ここのところ年末年始に岩手や福島など、雪深いところの温泉に行くことにしている。今年は新潟に行ってみよう、ということになり、海沿いの温泉に一泊、松之山温泉に一泊して、温泉三昧してきた。


私にとって温泉三昧とはつまり、読書三昧ということ。どの本を持っていくか、というのを考えるのが、めちゃくちゃ楽しい。今回は、同居人が絶賛していた『狂うひと』をメインに、万一、それが読み終わってしまった場合、またはどうしてもノレなかった場合に備えて、文庫本を2冊、持参した。


行きの新幹線の中で読み始めた『狂うひと』は、文句なしに面白く、読み始めたら止まらない。電車の中、宿についてから、寝る前、と、止まることなく読み続ける。途中、既読の同居人と内容についてあれこれ話し、二人でひとしきり大絶賛してから、また続きを読む。結局、二日目の松之山温泉で、深夜に読み終わった。

狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

島尾敏雄の『死の棘』をはじめて読んだのは、たぶん22歳か23歳、丸の内の商社で働いていた頃だった。東京から自宅のある大船まで電車で約50分、残業して乗った電車は満員というわけではなかったが、座席を確保できるほどは空いておらず、わたしは立ったまま文庫の『死の棘』を読んでいた。この本についてある程度前知識があったはずだけれど、おそらくこれほどの狂気の描写があると思っていなかったのだろう、夢中で読んでいるうちに、電車の揺れのせいもあってか、だんだん気分が悪くなってきた。あ、まずいな、と思い、本を閉じて、その場にしゃがみこんだところまでは覚えている。気づいたら、知らない人が腕をひっぱって、座席に座らせてくれた。「だいじょうぶです、だいじょうぶです」と言って、次の駅で降りて、ベンチでしばらく涼んでいた。頭の中は『死の棘』のさまざまな場面でいっぱいで、これ以上読み続けるとまた気分が悪くなると思い、しおりを挟もうと思ってカバンの中を探したら、ない。どうも、電車の中で倒れたときに落としたらしい。


これは、神様がもうこの本は読まないほうがいいと考えたにちがいない、と思い、それきり読むのをやめた。後にも先にも、小説を読んでいて入れ込みすぎて具合が悪くなった本は、この1冊だけだ。読みながら、わたしは島尾敏雄をひどい男だとは思えなかった。妻の狂態も他人事とは思えなかった。わたしの小説の読み方は、基本的には昔も今も変わらず、自分に重ねて読むので、当時、未婚の若い女だったにもかかわらず、夫に裏切られた妻に思い切り共感し、一緒に苦しみ、ついに貧血を起こして倒れてしまったのだ。


再読したのは(というか、後半は初読だ)30代後半か40代前半、自分自身、いろいろな経験をした後のことだ。さすがに図太くなって、気分が悪くなることなく最後まで読みきったが、やはりこの小説は、他人事とは思えない、自分の心の中のどこかを、ぎゅっと握ってぐにゃぐにゃ動かされているような感じがする、特別な本だと思った。

死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)

『狂うひと』は「新潮」の連載でその一部を読んで、これはすごいな、と思った。もしかしたら、20代の頃、ごく普通のOLだったわたしがあれほど(電車の中で倒れるほど)共鳴した理由がわかるかもしれない、と思った。それで、結論を言うと、少しわかった。少し、というのは、完全にわかったわけではないから。それと、どんなふうにわかったかを、うまく言葉にすることができないから。少なくとも、この梯さんという女性作家が描く島尾夫妻が、これまでのどんな評論や感想よりも、わたしにはぴったりとはまって腑に落ちたのは間違いない。それは、調査やインタビューの深さ、緻密さ、文章や構成の巧みさなどもさることながら、ミホと千佳子という二人の女性の側に徹底して寄り添い、彼女たちにとっての「死の棘」を描き出しているからだ。わたしが読んだのと同じ視線で、しかしはるかに冴えた視線で、「死の棘」の登場人物たちを、戦中・戦後の時代を、奄美と東京を、とらえているからだ。ミホと千佳子に加えて、本書にかかわる三人目の女、梯久美子という作者その人に、猛然と興味がわいた。


先月、本書の刊行記念で、梯さんと島尾伸三さんの対談イベントがあったのは知っていた。行きたい、と思ったけれど、年末で忙しかったことや、何より本書を未読でイベントに行くのはどうかということもあって、結局、行かなかった。そこではどんな話が出たのだろう。調査やインタビューからわかることもあるし、深く考えて思いをめぐらすことで見えてくることもある。もしかしたら、何が事実か、真実はどうだったのか、というのは、どうでもいいことで、重要なのは、『死の棘』という小説に描かれていることを、梯さんはどう読むのか、わたしはどう読むのか、ということのような気もする。


今年の夏は、沖縄に行くかわりに、奄美に行ってみようか、と同居人と話している。もちろん、島尾敏雄のゆかりの地だから、というだけじゃなくて、きれいな海や大自然がメインの目的だけど。などと書いているうちに、ずいぶん遅くなってしまった。明日から会社。寝なくちゃ。