『本格小説』読了

だいぶ更新が滞ってしまった。
先週のはじめごろに、「おもしろかったあ!」の声とともに、水村美苗本格小説』読了。
ただ、下敷きにしているというブロンテの『嵐が丘』を読んだときもそうだったのだけれど、
ヒースクリフにあたる強烈なヒーロー、東太郎には、まったくひかれなかった。
これは単に好みの問題か?


でも、ヒースクリフにひかれなくても『嵐が丘』がおもしろかったのと同じように、
この『本格小説』は、小説としての仕掛けと、会話や情景描写の細かいところが、
とてもよくできていると思う。
ちょっと、いや、だいぶあざといところもあるので、
これをうぇっ、と思ってしまうと、おもしろく読めない。
戦後の数十年間の日本の「格差社会」を、デフォルメして滑稽に描いていて、
目のつけどころのイジワルさは、小説好きの女性ならでは、だと思うし、
もしかしたら作者は怒るかもしれないけれど、
この作品はとてもよくできた通俗小説だと思った。
『続明暗』を読んだときに、
漱石の『明暗』の続編を書こうだなんて、そんな大それたことを、
新人の、それも女性作家が試みたということに驚き、
その大胆さに対して、ストーリー展開や文体の保守的な感じが、
さらに驚きを強化したという記憶がある。
でも、漱石だってブロンテだって、
「文学でござい」という顔をして書店に並んでいるけれど、
「明暗」だって「嵐が丘」だって、読者として読んだときには、
「文学を学んでおりまする」という気持ちは、さらさらなくって、
登場人物に思い入れたり、先の展開を楽しみにしたり、
結末に衝撃を受けたりしながら読んでいたんだよなあ。


で、わたしがこの作品で妙に印象に残っているのは、
最初の長い前書きと、本編の語りの部分と、両方に出てくる、
「電球を取り替える」場面。
作者は「電球を取り替える」という作業を、「男手」の仕事の典型というか、象徴のように使っていて、
それはほんとうに、みごとだと思う。
育った家によるのかもしれないけれど、少なくともわたしの家では、
「電球を取り替える」というのは、男の仕事だった。
そのほか、虫を退治するとか、電気の配線をするとか、なぜかこの「男女平等」っぽい世の中でも、
「男の人にやってもらいましょ」ってな仕事が存在する。
(余談だが、わたしはいっしょに暮らしていた人と別れて一人暮らしになったとき、
それまであまりめそめそしていなかったのに、初めて虫を一人で退治し終えてほっとしたら、
ぼろぼろ涙が出てとまらなくなって、号泣してしまったことがある。)
「電球」を取り替える、という作業は、女性より背が高くて体つきのいい男性が、
いすやはしごにのぼって、注意深く電球をとりはずしてくれるもの、
そして女性はいすやはしごの下で、不安げに男性を見上げながら、替えの電球を手渡したりするものなのだ。
だから、その作業を、父親や夫以外の男性に頼むというのは、
その人を「男の人」として頼りにしている、ということで、
頼んだ女性の側からすると、それがたとえ少女であっても、なんとなく「異性」を意識するものなんじゃないか。
少なくとも作者は、そう考えたに違いなく、わたしはそれについては、かなり正しい、と思う。


最後に『嵐が丘』にはないどんでん返しがあるので、未読の方はぜひ、それを楽しみに読み進めてほしい。
単行本が出てすぐにこの作品を読んだといううちの同居人は、
わたしがこの本を読んでいる間、このどんでん返しをばらしたい衝動にかられたらしい。
読み終えてから、同居人相手に、東太郎や「よう子ちゃん」はもちろんのこと、
本編の外に置かれる「わたし」や、聞き手の青年、語り手の女中、三姉妹、重光家の人々、その他もろもろ、
ものすごくたくさん出てくる登場人物たちのことを、
まるでほんとうの知り合いの近況を報告するかのように語ってしまったことから、
そして、同居人が、「そうそう、そうだったね」と古い知り合いのことを思い出すようにこたえたことからも、
この小説がよくできた通俗小説だということがわかるように思う。

本格小説〈上〉 (新潮文庫)

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