とりあえず何か書いてみる

このままでは更新をしないまま、ずるずると終わってしまいそうなので、とりあえず何か書いてみることにした。いつもはいそがしすぎて更新が滞るのだけれど、いまはここ数年で(もしかしたら生まれて初めて、ってくらい)のんびりした毎日を過ごしているのに、なぜか読書もブログ書きもはかどらない。強制的な代休消化とお盆休みで今月はあまり会社には行かず、自宅でせっせと原稿を読んだりメールを打ったりしていて、そうなると仕事を離れてまで、自宅で本を読んだり文章を書いたりする気にならない、ということなのかも。でも、翻訳をやっていた頃は、一日中自宅で作業をしていたんだから、できないはずはないんだけど。


さて、ずいぶん日にちが経ってしまったけれど、このところ読んだ本の中で面白かったのは、ホーソーン「緋文字」、水村美苗「母の遺産」、小谷野敦文学賞の光と影」。いまいちだったのは、村上春樹1Q84]をはじめ、何冊かあるけど省略。いま読んでいるのは、高田里恵子「女子・結婚・男選び」、枝元なほみ枝元なほみの料理がピッとうまくなる」。送られてくる文芸誌はとりあえず手にとりぱらぱらと拾い読み。夏の古本市は、京王と東急と両方行った。今年は東急のほうが圧倒的に私好みの品揃えで、「世界文学」のバックナンバー1〜6セットで2100円、というのを買った。わたしが生まれた頃に冨山房から刊行されていた雑誌で、執筆者の名前を見ても、タイトルの付け方を見ても、当時の外国文学の隆盛ぶりがうかがわれ、切ないような気持ちになる。そうなのだ、このような文化の中で、わたしは少女時代を過ごした。昭和40年12月、私がやっと1歳になったばかりの頃、菅野昭正氏は書いている。「……文学にとってなによりもまず大切なことは、文学経験を豊かにするすぐれた作品とつきあうことである。立派な作品は立派だから立派なのであって、そこには東もなければ西もない。立派な作品に出会い、それがたまたま西の作品であったら、ぼくたちは奇怪な変造の危機に陥ることをできるだけ避けながら、文学経験の豊饒化だけに専念すればいいのだ。そのためは、憧憬と反撥のいりまじった心性の呪縛から解きはなたれて、虚心に外国文学と触れあわなければならないだろう。そして、そのことが日本文学の未来を豊かにする最短の道なのである。」(「世界文学2 174ページ)なんというか、あまりにまっすぐ、牧歌的、とも言えるほどの前向きな文章で、1960年代、70年代には、まだまだ外国文学への期待や関心が十分にあったのだなあ、とあらためて思う。


ただ、この雑誌も、いま調べたところ、1965年〜1968年に1巻から8巻までを出して廃刊(か休刊)になっているらしいので、文学は売れない、外国文学はもっと売れない、というのは、当時も同じだったのかもしれないなあ。わたしは若すぎて(きゃっ!)リアルタイムではそのあたりの様子はわからないけれど。いずれにしても、この雑誌は目次を見ているだけでも楽しくて、各巻の特集名と目次で一番大きな扱いになっている記事だけをとりあえず紹介すると、
1巻 戦後・その状況と問題 座談会/戦後アメリカ文学安部公房小島信夫佐伯彰一ほか) 
2巻 20世紀の古典 ジョイスプルースト・マン・フォークナー(辻邦生・邦高忠二・小池滋・円子修平)
3巻 イズムの時代 バタイユベンヤミン・バレス・エリュアール・ハクスリー・カンディンスキーマヤコフスキーシェーンベルクシュペルヴィエルトロツキー・イェーツ
4巻 スペイン市民戦争 座談会/スペイン市民戦争をめぐって(阿部知二・城戸又一・荒正人日野啓三渡辺一民
5巻 バロック現代文学 小説/ボルヘスアレフ
6巻 言語とイメージ キャロル・ジッド・ジョイスカフカマラルメ・パウンド(丸谷才一宮川淳・若林真・生野幸吉・田村隆一・柏木素子・佐々木基一

ひゃー。これを書こうと思って1冊ずつ手にとって中をぱらぱら見てみたんだけど、おもしろいー。止まらない。そして、雑誌掲載の文章のためか、文章が適度に一般向けに書かれていてわかりやすい。自分自身もここ10年ほどの間に、外国文学の「名作」と言われるものをせっせと読んでいるということもあり、また、仕事柄、「評論」と呼ばれるジャンルのものを読まざるを得ないということもあり、いまの私にはこの50年近く前の雑誌のバックナンバーが、いろんな意味でぴったりくるんだなー。というわけで、読書不調・ブログ不調をのりきるためにも、読みかけの本を中断して、この夏は「世界文学」バックナンバーを読んで、半世紀前の文壇にタイムスリップ!といきますか。