箱根日帰り温泉で漱石を読む

今日の目的地である箱根日帰り温泉は、タオルのレンタルが有料なので、
タオル、バスタオル、着替えなど、かなりの大荷物で出かけることになった。
となると、「ブリキの太鼓」は重い。
出かける直前に同居人の書棚をあさり、埃をかぶった新潮文庫漱石を引っ張り出して鞄にいれた。


ロマンスカーで新宿から箱根湯本まで行き、そこからバスで日帰り温泉施設へ向かう。
「天山」というこの温泉施設は、わたしが大学生のころからあった。
当時は休憩所と食事をするところが一緒になっていて、
畳の大部屋みたいなところで鉄板焼きをして、そのすぐ横で人がごろごろ寝ている、というような、
田舎っぽい庶民的な施設だった。
でも露天風呂はとにかく充実していて、今と同じようにいろんな種類があった。
それが今は、ずいぶん垢抜けた施設になっている。
渓流の景色を楽しめる窓際のお座敷で麦とろご飯のセットを食べ、
ゆったりとしたリクライニングチェアのある「読書室」で、
のんびりと読書をしてマッサージの予約の時間まで過ごす、という、
優雅な一日を満喫した。


この優雅な「読書室」で、漱石の小品を集めた薄い文庫本を読了。

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

うーん、やっぱりうまい。
わたしは特に漱石が好きなわけではないのだけれど、
毎日同じような長さの短篇(文庫本で10ページ以内ってとこかな)を読みあさっている身からすると、
文豪だからとかそういうことと関係なく、
目のつけどころ、言葉の選び方、スパイスのきかせ方、
あらゆる点で、やっぱり全然格が違うな、と思ってしまった。
古い文庫本の文字が小さくて、そういう意味では「読みにくい」のだけれど、
文芸誌で読む現代作家の短篇よりもはるかに読みやすいし、わかりやすい。
箱根の温泉の読書室という舞台設定とあいまって、
久しぶりに文化的な気分を味わったのだった。


さて、漱石についてだけれど、
高校生のころ、仲間うちで、「漱石の小説の中で何がいちばん好きか」と話したことがある。
そのころはまだあまりいろいろな作品を読んでいなくて、
「我が輩は猫である」と「坊っちゃん」があまり好きではなかったので、
「こころ」かなあ、と答えたと記憶している。
二十代の後半に「明暗」を読んで、あ、今あのときの問いに答えるとしたら、
「明暗」って言おう、と思った。
当時自分がかかえていた問題と作品が重なったということも一因かもしれないが、
今のところはまだ、わたしの漱石お気に入りNO1は、「明暗」だ。


仕事の関係で短篇小説を読む機会が多いのだけれど、
個人的な趣味でいえば、短篇小説はあまり好きではない。
今日読んだ漱石もそうなのだけれど、
「うまいなあ」とか「さすがだなあ」とは思うものの、
長篇小説や詩を読んだときの、がつーん、という感じ、
ぐおーっと作品世界に没入していく感じに比べると、
クールっていうか、頭で理解している感じがするのだ。
一つの作品が終わって、いちいち頭を切り換えて、また一からやり直し、っていうのが、
ちょっとしんどいような気がする。
翻訳の仕事をしていたときも、短篇より長篇のほうがやりやすかった。
一冊だけ、短篇集の訳書があるのだけれど、
それはある雑誌で2ヶ月に1回、連載という形で一篇ずつ訳していったので、
じっくりと取り組むことができたという例外だ。
でも、翻訳仲間の中には、「短篇のほうがやりやすい」という人もいて、
長篇にくらべて飽きないし、常にフレッシュな気持ちで取り組めるから、と話していた。
ほー、やっぱり人それぞれなんだなー。


人それぞれといえば、ああ、小説に対する評価って、どうしてこんなに人それぞれなんだろう。
みんながいいと思う小説なんて、絶対存在しなくて、
Aさんがいいといえば、Bさんがだめだといい、
Aさん、Bさんがまあまあといっても、Cさんがあり得ないと叫ぶ。
Dさんはどれも同じようなものだからなんでもいいよ、といい、
Eさんはそもそも小説なんてくだらないっしょ、という。
八方美人のわたしはあっちへふらふらこっちへふらふら、
どうしたらいいかわけがわからなくなって、
そういうときは自分の感性を信じよう、と、自分のいち押し小説をあげてみると、
ああ、かなしいかな、その小説に限って、ほぼ全員一致で「あり得ない」の大合唱。


でもまあ、おとといは特筆すべきすてきな出会いもあったことだし、
少々のことではめげずにがんばるノダ。