書評の感想は難しい

阿部公彦『小説的思考のススメ』、少し前に読み終えたのだけれど、感想を書けずに数日がすぎてしまった。このままだと書かずに終わってしまいそうなので、あまり頭の中がまとまってないんだけど、とりあえず書き出してみることにする。

小説的思考のススメ: 「気になる部分」だらけの日本文学

小説的思考のススメ: 「気になる部分」だらけの日本文学

書こうとしてみてわかったのは、書評や文芸評論の感想というのは、案外難しいということだ。読んでいるときは、そうそう!とか、うーんやるなあ、とか、いろいろ感想を持ったし、周囲の人にも語っていたんだけど(まだ読んでいない人からは、大事にとってあるんだからそんなに詳しく話すな、と言われたくらいだ)いざ読み終わってから書こうとすると、この本についてじゃなくて、取り上げられている小説についての自分の感慨(書評や批評ではなく、あくまで感想、というか、まったく個人的な感慨)ばかりが盛り上がってしまうのだ。既読の小説についてはこのような思いをもたらし、未読の小説についてはこりゃ読まないわけにはいかないな、という気持ちにさせられる、というのが、この軽やかな文芸評論の効用(?)なのかもしれない。


まず第一章、太宰は「斜陽」、漱石は「明暗」をとりあげていることに驚く。 というのは、二人の作品を全部読んだわけではないけれど、それなりに有名な作品は読んで、その中で「名作」かどうかはわからないけれど、個人的な思いが最も強い作品が、それぞれ「斜陽」と「明暗」だから。高校生のときに「斜陽」を読んだとき、没落していく旧家の様子をスウプひらりひらりで表現した冒頭に感動したものだった。阿部先生はその部分ももちろん引用して、この小説の「丁寧さ」に注目し、文章の「うまさからの離脱」を指摘する。そうそう、そういう小説だった、と思うのが半分、自分の読み方はなんと稚拙だったことか、と思うのが半分(高校生だもの、しょうがないよねえ)。「明暗」はもう言い訳がきかない二十九歳のときに読んだのだけれど、その頃わたしは「明暗」の主人公と重なるような、「過去を引きずる優柔不断男」と、限りなく片思いに近い恋愛中だったため、主人公の言動のひとつひとつにいちいちひっかかり、「この人の本当の気持ちがわからない!」といらいらしたものだった。で、この小説についても、阿部先生は難しい言葉は一切使わず、わたしのこの「いらいら」のみなもとを分析してしまった。


と、こんな調子で感想を書いていくと、全部の作品に触れてしまうことになるから適当なところでやめたほうがいいだろう。ただ、よしもとばなな「キッチン」と、絲山秋子「袋小路の男」は、主人公というか語り手の気持ちが「わたしには痛いほどわかる」と思っていた作品であるだけに、男性である阿部先生にこのように見事に分析されてしまうと、なんというか、見透かされたような恥ずかしいような気持ちになってしまった、ということだけ書いておこうと思う。いやいや、阿部先生、まだまだ女心がわかってませんな、と言ってやりたいところなのだけれど。


そんなふうに思いながら最終章に至って、そこに「変化球」として紹介されている読書会の描写を読む。それを読みながら、この部分に、最終章はもちろんのこと、本書全体で示された、数々の小説的仕掛けがほどこされていることに気づく。曰く、「小説とは人間と嘘との濃厚な関係が解放される場なのではないか」(「はじめに」)。「小説では、遅れてひっそりと挿入されるような言葉によってこそ、語りが展開されていると言えるのです」(155ページ)。詳しくはぜひ本書を読んでみてほしい。小説を読むことや、小説について考えることって、なんの得にもならないけど、楽しいなあ、もっともっと小説を読みたいなあ、という気持ちが盛り上がる本。知的な分析ではあるけれど、小説に対するまっすぐな愛情の感じられる本でした。


ところで、つい先日、十名ほどの潜在読者を相手に自分が編集した本について三十分ほど説明するという機会があった。まあ、簡単にいえば営業活動なのだが、大奮闘で熱弁をふるったわりには相手の反応は悪く、かなり落ち込んでしまった。でもたとえば、この説明会のことを小説にしてみたらどうだろう。滑稽なまでに熱弁をふるった自分も、イジワル発言をしたおじさんも、ひそひそ話をしていたギャルも、みんな小説の登場人物にしてみたら。考えているうちに、司会をしていたお兄さんはメガネをかけたインテリに、ジャージ姿のおじさんは大声で笑う体育会系おじさんに変身し、なんだか楽しくなってきてしまった。これって小説的思考の効用? いや、単に話を「盛った」ってことか。