本棚を見れば

少し前のことだが、職場の営業の人と雑談をしていて、「わたしは営業はあまり得意ではないのだけれど、行ってみたい現場がある」と話したことがある。ブログ上だけでの知り合いで、名前もわからないし、その現場にいるかどうかも実は勝手に想像しているだけで、まったくの勘違いかもしれない。でも、わたし自身がその現場に行って、その人の本棚を見れば、きっと「はじめまして、北烏山です」と挨拶ができると思う。だいたいそんな内容の話をした。


しばらくしてその営業マンから電話がかかってきた。「この前話していた人の名前、わかりませんか」と。最初は何を言っているのかわからなかったのだけれど、やがて「本棚を見れば」の相手のことだと理解し、あわてて名前も知らないし、会ったこともない、職業や勤め先だって確信があるわけではないのだ、ということを必死に説明した。そのブログの主は、仕事とプライベートを明確に分けていて、プライベートの世界を大切にしているということはよくわかっていたし、わたし自身もこのブログの存在を会社の人にあまり知られたくないので(会社の愚痴とかいっぱい書いてるからね〜)、「本棚を見れば」という話はあくまで雑談というつもりだった。


ところが、この定年間近のベテランの営業マンは、この件がどうしても気になったらしい。その後、また連絡があり、名前はわからないにしても、せめてブログ名を教えてもらえないか、なにかとっかかりになるような情報があれば、と必死なのだ。少し気の毒になったが、やはりブログ名は教えないほうがいいだろうと思い、「わたしと同じくらいの年齢で、古本が好きで、休日出勤で終日屋外にいることが多い人だと思う」という、なんだかへんてこな情報だけを伝えた。内心、これであきらめてくれるといいな、と思っていた。


だがしかし。ああ、なんということか、この営業マンは、彼の職場に電話をし、「古本は好きですか」と質問をし、図々しくも面会の約束をとりつけ、堂々とわたしのつくった本の売り込みをしてきてしまったらしいのだ。しかもその事実を、わたしはその方のブログを読んで知った。やさしい気遣いにあふれていて泣きそうになった。ありがとうございます。そして、そんなつもりはなかったとはいえ、おかしな営業活動をしてしまって、ごめんなさい。


20代の頃、喫茶店で長い時間本を読むのが好きだった。当時のわたしのアイドルは、北上次郎こと目黒考二さんで、彼のエッセイなどはすべて読んでいたし、彼がすすめている本は片端から読んでいた。それで、神保町の喫茶店などで、目黒さんに偶然出会うというシチュエーションを夢想してドキドキしていたものだ。注文したコーヒーが運ばれてきたとき、わたしは読みかけの文庫本をうっかり床に落としてしまう。となりに座っていた男性が、本を拾ってくれて、タイトルを見て、「あ、この本僕も読みました。おもしろいですよ」と話しかけてくれるのだ。で、この男性が、実は目黒さん、というわけ。先ほどのブログ主の方にも、その方の職場に限らず、神保町の喫茶店西荻窪の古本屋、どこかの古書市などでばったりお会いして、そのとききっと、「あ、この人は」とピンとくるような気がしている。


連休明けに一冊読了。

孤独な鳥はやさしくうたう

孤独な鳥はやさしくうたう

先日、トークショーに行って大ファンになってしまった田中真知さんのエッセイ集。これを読んで、ますます田中さんが好きになった。感想を一言でいうと、「田中真知は、日本のブルース・チャトウィンだ!」


もう十五年くらい前に、翻訳学校の研究室でチャトウィンのエッセイ集『どうして僕はこんなところに』を共訳した。そのとき思ったのは、チャトウィンはもちろん旅行作家なのだけれど、チャトウィンの文章の素晴らしさは、何よりその地で生きる人々の暮らしや喜怒哀楽が、温かい目線で描かれているところにある、ということだった。同じことが田中さんの場合にも言えて、旅先の風物や珍しい出来事ももちろん描かれているのだけれど、文章の中心にあるのはやはり人間の姿だった。そして、さっき「温かい目線」と書いたけれど、実はチャトウィンと田中さんに共通しているのは「温かい」ということだけじゃなくて、どことなく寂しいというか、この「生」の先にあるものーー死? を見つめているようなところがある、ということが言えるような気がする。人間の「立派さ」より「滑稽さ」にスポットライトをあてているこの文章を読みながら、世界中を旅しなくても、フリーランスにはなれなくても、こんなふうに世の中とつきあっていくことは可能なのかもしれないな、と思った。