『遠い山なみの光』読了

旧題は『女たちの遠い夏』。

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

小説らしい小説を読んだ。大変よかった。
よい文学作品を読むといつもそうだが、
描かれている世界は今の自分の境遇と直接的に似ているわけではないのに、
自分自身にひきつけていろいろと考えてしばしぼーっとしてしまう。
ちなみに新しい邦題は原題をそのまま訳しているわけだが、
わたしは内容に合った旧題のほうが好きだな。と、
読み終えてから思った。
女たちの遠い夏」。まさに、そういう小説だ。


イギリスに住む日本人の中年女性が、
敗戦直後に長崎に住んでいた頃のことを回想する、という設定で物語は進む。
もちろん男たちも出てくる(主人公の夫とその父親の会話はみごとだ)が、
なんといってもこの小説のうまいところは、女たちのとりとめのない会話だ。
池澤夏樹が解説で書いていることなので、いまさら繰り返しても意味がないけれど、
女同士の会話のとりとめのなさ、意味がないようで意味があることばのやりとり、
沈黙の中にこめられた思い――などが、主人公の悦子と佐知子、悦子と藤原さん、悦子とニキ、
というふうに組み合わせをかえて、延々と描かれる。


敗戦直後の長崎という舞台設定は、もちろんこの小説の重要な要素だろう。
戦争(と原爆投下)で、人々はいろいろなものを失った。
それから数十年を経て、女たちは恋愛をしたり、子どもを産んだり、
その時代、その環境で、その人なりの人生を歩んだ。
最近、熟読した林京子の小説「空缶」とよく似ている、と思った。
自ら被爆体験のある林京子にくらべ、
戦後生まれの英国男性作家に、「ナガサキ」の何がわかる、と思う人もいるかもしれない。
だが、この小説で描こうとしたのは、「ナガサキ」ではなく「女たちの遠い夏」なのだ。
21世紀の日本に住む中年女性もまた、この本を読み終えるとしばらくぼんやりして、
「わたしの遠い夏」のことを考えることになる。


戦争を体験していなくても、
日本とイギリスほど遠く離れたところに移住していなくても、
40代のいま20代だった20年前のことを振り返ると、
世の中も自分の境遇も、びっくりするほど変化している。
まるで変わっていないのは、自分の幼稚で一本気な性格だけ……のような気がする。
20年前、わたしは茨城県の取手という駅から15分ほどの、利根川河川敷近くの中古マンションに住んでいた。
遠い山なみの光』の悦子と同様、この取手での生活が終わりを迎えるときには、
それはもう、大変なごたごたがあったわけだけれど、
なぜだかそのあたりの生々しいことは、20年もたつとすっかり忘れてしまっていて、
思い出すのは、初めて河川敷にいったときに、利根川がきらきら光ってきれいだったこととか、
わたしの留守中に、ママさんテニス仲間がうちのドアノブにぶらさげておいてくれた野菜の入ったビニールとか、
何時間も時間をつぶした駅前の東急ストアの喫茶店、お気に入りだったメニューとか、
まあ、ほんとうに些細な、どうでもいいようなことばかりだ。
世の中も変わった。
あの頃はまだ、土日でもスーパーに連れ立って買い物に来るご夫婦というのは少なかった。
それでも時々、当時はわたしもまだ若かったがそのわたしよりも若い、あまりお金も持っていなさそうな夫婦連れが、
安いお肉やお野菜を、わあわあ言いながら買い物をしているのを見て、うらやましく思ったものだ。
今、近所の大好きなスーパーさえきに行くと、土日などは特に、まわりじゅう、夫婦連れだらけだ。


取手の家を出た日のことで、一つだけ妙に覚えていることがある。
それは、廊下からリビングに通じるドアと壁の間にたまっていた、綿埃だ。
自分の荷物をダンボールに入れてリビングに積み上げ、引越しの車を待っているとき、
その大量の綿埃が視界に入ってきた。
もともとわたしはお掃除をこまめにするというような繊細な性格ではないので、
なんだかその綿埃がわたしのそのような生活態度を責めているような気がして、
最後に掃除機をかけて出ようか、いや、そんなことは必要ない、とか、
綿埃を見つめてずいぶん長い時間、自問自答をしていた。
結局、悩んでいるうちに引越しの車が来て、わたしは掃除機をかけずに、取手の家を出た。
とまあ、それだけの話だ。


遠い山なみの光』では、主人公の悦子が日本人の夫と別れ、子連れで日本を離れ、
イギリス人の夫と再婚するまでの「事情」は、ほとんど描かれていない。
だから、なぜ悦子が夫と別れたのかは想像するしかないわけだが、
逆に言うと、時がたてば、「別れた」という事実だけあれば十分で、
「なぜ別れたか」ということはさして重要ではなくなる、ともいえるのかもしれない。
たぶんその瞬間には、これこそが別れの理由、というのがあったのかもしれないけれど、
時間がたって振り返ってみると、別れの理由はそのことだけではなくて、そのほかのいろんなこと、
先に描かれた義父との会話や佐知子とのやりとり、万里子への思い、
もしかしたら、ケーブルカーから見た風景や、万里子がくじびきで当てた木箱の中にも、
別れの理由はうっすらと含まれていたのかもしれない。


こういういい小説を読むと、会社や仕事のことでくよくよするなんて、ほんとうにばかばかしいという気持ちになる。
会社勤めしているおかげで、お金の心配をせず、こうやって本が読めるんだから。
仕事の内容には不満はないのだし、最近はこうして週末はゆっくり読書をする時間なんかもとれちゃうし、
ほんとうに、ありがたいことではないか。


……というわけで、ひきつづきのイシグロ祭り、次は『浮世の画家』を読みます!
すぐに読み始めたいくらいの気分なんだけど、さすがにちょっとは寝ないと……なので、
ぐっとこらえて今日のところはおふとんに入ります。