桐野夏生『ナニカアル』

昨夜9時ごろから読み始めた自宅本、桐野夏生『ナニカアル』は、
おもしろくてやめられず、もう少し、もう少し、と読み進めて、
結局、午前3時ごろに読了!

ナニカアル

ナニカアル

いやあ、うまい。いま、中年女を描かせたら、この人がピカ一なんじゃないだろうか。


林芙美子の秘密の恋、という設定がいいし、
小説としての構成もうまいし、
何より30代後半から40代に年下の男と恋におちるという女心の描き方が、絶妙。
非難覚悟で書いちゃうと、これは、男流作家には書けませんぜ。


林芙美子のほかにも、窪川稲子や久米正雄なんかも実名で出てくるし、
太平洋戦争中に作家がどんなふうに利用されたか、という話や、
日本の占領下にあった南方の生活ぶりも興味深く、
歴史小説を読むような楽しさもある。
でもまあ、なんといっても、林芙美子が魅力的なんだよなあ。
自由奔放で、わがままで、思想なんてまるでない。
でも、好きで好きでたまらなかった年下の恋人が、自分の作家としての仕事を侮蔑したとき、
別れを決意するんだよね。
このくだりが、男には書けない凄みがある。


スパイの疑いをかけられた男が、酔いも手伝って芙美子に向かってこんな台詞を吐く。
「……きみは好きだが、あの一番乗りのルポはいかん。軍の思惑に乗せられた馬鹿な女のルポだ。
 いいかい、きみの書いた物など、十年後には何ひとつ残っちゃいないんだよ。
 そうだな、『放浪記』は、歴史的検証物として残るかもしれない。
 だけど、他の作品は一切残らないぜ。絶対に。俺は断言するよ。
 そんなことを言って悲しくないかって? いや、悲しくなんかない。
 俺が好きな女は、その程度の作家だったんだからさ。
 だけど、女としては可愛かった。
 いい気になって従軍して、軍部の手先になって、馬鹿な文章を書き残した。
 そんな程度の女だ。
 (中略)
 だけど、俺は嫌いじゃない。だから、寝たし、可愛がった。……」(357〜358ページ)


芙美子は「驚愕と痛みとで声も出せな」くなる。
「謙太郎ハ、ソンナ風ニ思ッテイタンダ、ソンナ風ニ思ッテイタンダ」
この後、男は言い過ぎたと必死に謝るのだけれど、
芙美子の傷ついた心は、もう二度と元には戻らない。


この別れの場面が数ページにわたって続くんだけど、
うまいなあ、と思うのは、芙美子の悲しみの深さを、この年下男は結局のところ理解してない、ってところ。
そうなんだよなあ。男の人って、男同士のプライドの所在については敏感なのに、
女のプライドに対してはおそろしく鈍感なところがある。
そういうよくある男女の気持ちのずれが、中年の職業作家と年下の新聞記者という組み合わせでさらに切なさが増して、
作中の林芙美子と作家桐野夏生、読者である私、3人の中年女が、目配せで会話をしているような気分になったのだった。


ところで、こういうタイプの小説を読むとつい、どれくらいが史実で、どこからが創作なんだろう、というのが気になってしまう。
芙美子の恋人となる斎藤謙太郎は、毎日新聞の記者で、スパイ嫌疑をかけられたりしたが、戦後は大学教授となり、昭和34年に死去した、
と説明されている。で、どきっとするのは、
わたしの祖父は戦前、大阪毎日新聞の記者で、戦時中は左翼活動の嫌疑で投獄され、戦後は大学教授になった。
年は林芙美子と同い年だし、昭和57年まで生きていたから、もちろん何の関係もないんだろうけど、
ふと、あの厳格だった祖父の若かりしころに、年上の作家とのロマンスがあったとしたら……なんて想像したら、
祖母や母には悪いけれど、なんとなくうきうきしてしまった。