『浮世の画家』読了

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

残念ながらわたしはあまり相性がよくなかったみたいだ。
描いている世界も文体も、いかにもカズオ・イシグロで悪くはないのだけれど、
うーん、うまく言えないが、ここで描かれた「日本らしさ」「戦後らしさ」が、
ちょっと過剰というか、あざといというか、
もうひとつ、自然さに欠けるような感じがしたのだ。
戦後の10年くらいに日本の人々が経験した大きな変化のことは、
たとえば自分の両親など、身近に話を聞ける人がまだ大勢いる。
実際に幼い頃から、母の話をさんざん聞かされてきたので、
当時の山の手のお嬢さまたちの暮らしぶりや縁談に対する考え方などとは、
だいぶずれているんじゃないかなあ、と思ってしまった。


「日本らしさ」にしても「戦後らしさ」にしても、
抑制的に「らしさ」を表現するというのは、案外難しいように思う。
20数年前にイギリスに行ったとき、かなり注意していないと、
つい、「日本では……」「日本人は……」と、一般化して話をしたり、
ちょっとだけ誇張して話してしまったりした。
たとえば、当時の日本では既に、お見合い結婚する人はだいぶ少なくなって、
恋愛結婚が主流になっていたのに、
たまたまお見合い結婚をすることになった大学の友人の話を、
「それが日本では普通なのよ」というニュアンスで話してしまう、という具合に。
これは別に、嘘をつこうと思ってるわけじゃなくて、
外国の人になるべくわかりやすく「らしさ」を語ろうとするあまり、
「いかにも」という部分を強調してしまう、という心の動きなのだろう。


わたしの大好きな『日の名残り』についても、同居人は「同種の過剰さを感じる」と言う。
そうかもしれないけれど、わたしはたぶん、その過剰に描かれた「イギリス」が好きなのだろうから、
別にいいのだ。
小説を読むことの喜びは、作品やそのときの自分の気分によってさまざま。
普遍性に感じ入ってあれこれ自分の人生を考えることもあれば、
異国情緒に浸って現実逃避することもある。
世の中にはこんなにたくさん本があって、
まだまだ未読のすてきな本があるのだと思うと、
ほんとうにそれだけで、生きている意味があると思うのだ。


昨日はあまりにいいお天気だったので、
同居人と二人で自転車で遠出することに。
同居人は通勤に使っているカッコイイ自転車ではなく、
わたしにつきあってママチャリで出動。
わたしがどうしても買いたい本があったのと、
同居人がどうしてもマッサージに行きたいということで、
深大寺でおそば→植物公園→仙川の書原→千歳烏山のマッサージ、というコースに決定。
全体に満足度の高い1日だったのだけれど、
ただひとつ、仙川の書原で、お目当ての本が買えなかったことだけが不満。
この本が書原に入らないなんて考えられないので、
きっと本好きのだれかが、いちはやく買ってしまったのだろう、と考えることにした。
もしかしたら、と一縷の望みをかけて、千歳烏山の二軒の本屋に行ってみたが、
やはりどちらにも置いてない。(小さな本屋だから仕方がない)
それじゃあ、ということで、しぶしぶアマゾンでぷちっと購入。
今日、仕事から帰ってきたら届いていた。
これこれ↓。

おかしな本棚

おかしな本棚

困っちゃうんだなあ、この本、刊行される前から存在を知ってて、
出たらすぐ買おうって思ってて、
新聞に広告が出たっと思ったら、
お気に入りのブログの人たちがこぞって買ってて、
あー、先越されたー。
とにかく、かっこいい本。紹介されている本も、写真も、エッセイも。
恋をしそうなくらい、です。
この人たちは、ほんとうに本が好きなんだろうなあー。
夫婦で「文字どおりの共作」で装幀を手がけているという二人。
    「喧嘩にならないのか?」というのもよく訊かれる。ならないわけがない。
    だけど、二人ともなにしろ本が好きで、「いい本にしたい」ということ以外、何も考えていない。
    だから、喧嘩にはなっても、結果的にいい本になれば、
    喧嘩の内容などまったく覚えてない。(93ページ)
ありゃりゃ、ほんとですか−? ごちそうさまでした!
(ちなみにこの引用の12行ほど前に、ちょっとばかり興味深い事実が書いてあります。
 晩鮭さま、どうぞご確認くださいな。)