心変わりと嫉妬について

ビュトール『心変わり』読了!

心変わり (岩波文庫)

心変わり (岩波文庫)

めちゃくちゃおもしろかった。ここ数ヶ月のベスト!かも。
これは、ヌーヴォー・ロマンだ、実験小説だと構えて読んではいけない。
たしかに、2人称小説だったり、パリ−ローマ間の電車の中のできごとと主人公の妄想を巧みに交錯させたりと、
普通のリアリズム小説とは違う印象があるかもしれない。
でも、2人称の語りも、現在と過去と未来(妄想)が交錯する構成も、
慣れてしまえばどうということはなく、
なあんだ、これはわたしのだいすきなパターン、すなわち、
優柔不断な男主人公が、妻と愛人の間で揺れ動き、ああでもないこうでもないとおろおろする話なのだった。


第一部、男主人公(「きみ」)は、妻と別れて愛人と人生をやり直そうと決意している。
妻の描かれ方は冷酷なまでに無残だ。
「……それから彼女は、ハンガーに下げた、だらりと垂れた袖が音もたてずに静かにゆれているありさまが、
 まるで青ひげの先妻たちの冷酷にも皮肉な亡霊の、
 硬直した、ひどく細い腕を覆っているように見える服のなかから、
 グレイと黄色の大きな格子縞の部屋着をとりだし、裸の腕をあげて腋の下を見せながら袖をとおし、
 絹の紐を神経質に結ぶと、憔悴し、憂わしげで、疑い深い顔つきの病人のように見えた。」(19ページ)
これってあんまりだ。妻本人だけじゃなくて、こんな調子で周囲の壁に亀裂が入っているだの、
「鈍い、気持ちを滅入らせるような朝の光」だの、とにかく妻のまわりは、何から何までだめだめなのだ。
一方、愛人のほうはピチピチはつらつ、男主人公に自由と希望を与えてくれる「魔法の女」なのだそうで、
はいはい、そりゃあそうでしょうよ、糟糠の妻に、勝ち目はないのだった。


ところが第二部、第三部、と話が進むにつれて、男の気持ちに少しずつ変化が訪れる。
これが、絶妙。タイトルからしてきっとそういう話なんだろうと思って読んでいるんだけど、
それでも気がつかないくらい、少しずつ、少しずつ、気持ちが変わっていく。
何か大きなきっかけがあるわけでもなくて、
電車の中で同席する人たちから何か示唆を与えられるわけでもない。
でも、主人公が(「きみ」という2人称なのでいつのまにか同化している)観察する車内の人物群像や車窓の風景が、
もちろん小説の構成上は、主人公の「心変わり」を導くための小道具みたいになっていて、
それがほんとうに見事。


二部の終わりから三部に入るころには、妻と愛人の描き方が、180度変わるというわけではないけれど、かなり変化する。
妻は若い頃のはつらつとした姿が思い出され、愛人はパリへ連れ帰って輝きを失った姿が想像される。
どちらかというと(いや、はっきりと)妻の側に近い私という読者は、
しばし「きみ」=男主人公に感情移入するのをやめて、
「ほれ、ほれ」みたいな感じで男の優柔不断ぶりを笑う。あきれる。
まったく、そうなのだ。男ってやつは。
こうなることがわかっているのに、「決意」してみたりして、
「彼女のためだけに」長距離列車に乗ってみたりするのだ。
そして、「迷っているボク」に酔っているのだ。ああ、男ってやつは。
とかなんとかいって、わたしはなぜか、こういう優柔不断なだめ男がどうしようもなく好きらしい。
妻と愛人に向かって、「ふたりで話し合って決めてください」と言い出しかねないな、こいつは。


さて、もうひとつの話題は、嫉妬について。
おそらく偶然なのだと思うが、わたしが愛読しているブログで、二人の方が嫉妬について同じようなコメントを書いていた。
「女の嫉妬は男を奪った女に向かうが、男の嫉妬は自分を裏切った女に向かう」ということに対しての驚きと賛意。
このブログの主は、お二人とも人生の酸いも甘いもかみわけた(とおぼしき)「いい男」と「いい女」である。
だからわたしは、お二人のコメントを見てちょっと驚いた。
と同時に、わたしのほうがちょっと大人かも、みたいな、優越感に浸った。
わたしはずいぶん若い頃から、体験的にこのことを実感していたからだ。
あったりまえじゃーん、というのが、わたしの感想。いまさら驚くようなことではないのである。
三角関係がこじれたら、刺されるのはどんな場合も女、なのだ。


というわけで、「心変わりと嫉妬について」、三角関係評論家みたいなエントリーになってしまった。
引き続き、恋愛小説を読みたい気分だ。「ブリキの太鼓」とかじゃなくて。
どなたか、オススメの恋愛小説ありますかあー! と叫んでみる。