新潮文庫の新刊2冊

週末に、新潮文庫の新刊を2冊読了。
どちらも、単行本時に買おうかな〜読もうかな〜と思いながら、
なんとなく重いような、濃すぎるような気がして、購入を思いとどまっていた本。
文庫なら……と思って購入し、2冊続けて一気に読了。
予想どおり、どちらも重く、濃い本だった。ずっしり。

シズコさん (新潮文庫)

シズコさん (新潮文庫)

ばかもの (新潮文庫)

ばかもの (新潮文庫)


まず、佐野洋子さんの私小説ふうエッセイ。
入院しているお母さんのもとをたずねる「現在」と、
お母さんを中心にした家族と自分の「過去」を、交互に書いていき、
お母さんの死と少しの後日談で終わる、というスタイルは、
あれ、最近読んだ何かに似ている……。
肉親だからこその根深い愛憎が、これでもかこれでもかと言わんばかりに書き連ねてあって、
それでもとことんつらい気持ちにはならないのは、文章のリズムや書きぶりに、そこはかとなくユーモアが漂っているからだろう。
著者自身の感情の爆発のシーンを涙目で読みながら、
この本は、著者が「書かずにはいられなかった作品」なのだろう、と思う。
自分の家族関係とは全然違うのに、思い切り著者(主人公)に感情移入して胸を痛め、
読み終わると同時に、ふぅーっと深くためいきをついてしまった……という読後感もいっしょ。
――はい、「文學界」に掲載された、小谷野敦「母子寮前」でした。
佐野さんのは母と娘の愛憎劇で、小谷野さんのは息子の目から見た、母恋し物語。
どちらも凄みのある「家族もの」で、読み終えたら自分の家族のことを思わずにはいられない。


うちの両親は仲がいいし、わたしは虐待されたというような記憶はない。
むしろ、すくすくという音が聞こえてくるくらい、ほんとうにまっすぐに、
家族の愛情をまったく疑うことなく育った。
わたしにとって母はどこまでも母で、
わたしが知っている母のいちばん悲しい姿は、
妹が死んだときに、半狂乱になって泣き叫んでいた母だ。
わたしももちろんものすごく悲しかったけれど、
あのとき、母のことを、ほんとにかわいそうだと思った。
母は、「いちばん最後に生まれたのに」「まだ生まれたばかりなのに」みたいなことを口走っていた。
妹は33になっていたけれど、母からすれば末娘の妹は、いちばん最後に生まれた小さな子どもなのだ。
そういえば、兄が家を出て北海道の大学に行っていた頃、
わたしがピアノでさだまさしの「案山子」という歌を弾き語りしてあげたら、
母が大泣きしたこともあった。
「元気でいるか 町にはなれたか 友だちできたか
 さびしかないか お金はあるか 今度いつ帰る」というような歌詞のやつ。
こうしてみると、絶対泣かない勝ち気な佐野洋子母娘と対称的に、
うちの母とわたしは、めそめそ泣いてばっかりだ。


絲山秋子の『ばかもの』は、最初の数ページはほとんどポルノ小説。
優柔不断な男主人公「ヒデ」には愛着を感じるのだけれど、
女主人公の「額子さん」は、ちょっと品がなさすぎるんじゃないかなあ、
男言葉使いすぎだよなあ、とか思って、はじめのうちあまり好きになれなかった。
ところが、絲山秋子の小説を読むといつもそうなんだけど、
ずうっと読んでいくと、このだめだめな登場人物たちが、だんだん愛らしく思えてくる。
アル中から抜け出せないヒデが、片腕を失った額子さんが、愛しくてたまらなくなって、
小説のラスト、二人がやっと、いっしょに生きていこうと決めるシーンは、
そりゃあもう、まったくもって感動的で、涙なしでは読めないのだった。
   

   ヒデは上を向いて、けれども額子と目は合わせずに言う。
   「おめーさ、俺と結婚してーのかよ」
   言ってから、声がかすれてしまったことが気になる。
   「なんか、さっきそんなこと言ってなかったか?」
   「片品においでよ、って、言った」
   そうしたっていいよな、とヒデは思う。何が悪い。何も悪くない。こいつと生きていったらいい。
   「来たら、養子にしてやるよ」
   樹上から額子がせせら笑う。
   「大人になるまで面倒見てやるよ」
   「ばかもの」
    ヒデは言って、そのはずみに足を滑らせた。
    木々の緑を透かしてそそぐ強い日差しと照り返す水の眩しさがヒデの目の前にあふれかえった。
   (203−204ページ)


極上の恋愛小説。


こういう迫力のある本を2冊続けて読んでから寝たら、
案の定、何やら切なく悲しい夢を見た。
だれか大切な人がわたしから離れていく、というようなストーリーで、
目が覚めたら泣いていた。
おそろしく単純で感傷的なわたし。


さて、秋もふかまってきたことだし、そろそろ本格的な海外文学を読もうかな。
読みかけて挫折してる本2冊。「ブリキの太鼓」と「心変わり」。
どちらも手強そうだ。