「おつかれさまの国」と「歩いて帰ろう」

同居人がなぜか(いや、理由はわかっているのだが)ある日突然、斉藤和義に興味をもって、CDとDVDをまとめて買ってきた。時々いっしょに聴いていて、ああ、いいなあ、と思ってはいた。歌詞や曲はもちろん、斉藤和義という男もなかなかセクシーでいい男だなあ、と思ってもいた。でも今日、「暑いから」というだけの理由でだらだら過ごした連休最終日の夜、「ああ、明日会社行きたくないな〜」とだらしなく思いながら観た斉藤和義のDVDは、なんというか、今までになくまっすぐに、わたしの心に入ってきたのだった。


おつかれさまの国」という曲。
「そのひとの疲れに『お』をつけて『さま』までつけて『おつかれさまです』と声かけるぼくらの日々」という歌詞が泣ける、「おつかれさまの国。ほんとうに毎日、何度も口にする「おつかれさま」って言葉だけど、こんなふうに考えたことはなかった。そして、前に聞いたときは平気だったのに、今日聞いたら涙が出て止まらなかったのが、このフレーズ。

「つらいのはわかってる だけどわからないよ 誰だってそれぞれ隠した切なさは ほんとうはいえなくて だからいうのだろう ありがとう 大丈夫です おつかれさまです」

もう半年会社に来ていない上司と、わたしはこれまで何度、「おつかれさま」と言い交わしただろう。もちろんわたしは敬語で「です」をつけて。わたしは自分のつらさとか大変さとかで頭がいっぱいで、彼のつらさとか苦しさとか切なさを全然わかってなかったし、わかろうともしてなかった。「上司」だし「年上」だし、何よりあれだけの地位にあって、実力もあって、強い人だと思っていたから、自分のつらさや苦しさをぶつけることもできたし、時には食ってかかることもできた。でも、今ふりかえると、20代、30代の若手ならいざしらず、いい年したわたしが、どうしてもっと彼を支えよう、助けよう、と思わなかったのか、恥ずかしいような気持ちにもなる。人一倍仕事熱心で責任感の強い人だから、体を壊すまでがんばってしまったんだと思う。元気になって会社に来たら、今までよりずっと心をこめて「おつかれさま」と言いいたいよ。「ありがとう信じてくれてどうもありがとう」と言いたいよ。


「歩いて帰ろう」という曲。

これは、わたしのもう一人の上司のカラオケの十八番だった曲。実はわたしはこの曲を、彼が歌うカラオケ以外で聞いたことがなかった。この上司とも仕事上ではずいぶん衝突し(わたしったら上司と衝突してばっかり)、一時期は顔を見るのもいや、というくらい反発していたのだけれど、この歌をうたっているときの彼は、とてもとても好きだった。「走る道を見下ろして のんびり雲が泳いでく だから歩いて帰ろう 今日は歩いて帰ろう」ってうたうときの彼は、少年のような表情で、ああ、この人はほんとうはこんな大きなプロジェクトを背負ったりせずに、自分の好きな仕事を好きなようにやっていたら、めちゃくちゃ魅力的なんだろうな、と思った。「急ぐ人にあやつられ 言いたい事は胸の中 寄り道なんかしてたら 置いてかれるよ いつも」という歌詞を、ちょっとだけかえてお茶目に歌っていたっけなあ。あれは本音だったんだな、彼もあの頃、苦しかっただろうな、と思ったら、またぼろぼろ涙がこぼれて止まらなくなった。こちらの上司もいまは別の部署にいってしまって、ほとんど口をきくこともない。いや、きっとまたいっしょに仕事をしたら、ぶうぶう文句ばっかり言うに違いないんだけど、でも彼のつらさや苦しさも、わたしは全然わかってなかった、というか、わかろうとしなかった、わかりたくなかった。結局のところ、あの頃はそのプロジェクトに関わっている誰もが心身ともに大変で、苦しくてつらくて、わたしは自分と自分のまわりの年下の人たちの苦しさをなんとかしなくちゃと思っていて、とても、年上の強い(と思っていた)男の人たちのことまで気遣う余裕がなかった。


職場の年下の人たちに話したら、何をセンチメンタルなことを、と笑われてしまいそうだ。でもまあ、このちょっと(だいぶ?)ださくてセンチメンタルなところも含めて、わたしの性格なのだから仕方がない。ちなみに斉藤和義は、手首のあたりを中心に雰囲気が翻訳学校の校長に似ている。どちらもセクシーでいい男。