昭和育ちの平成ワーキングウーマン

またしても連日午前様の日々。会社の鍵を締めて終電で帰宅する日々が続いている。そんな中ではあるが、先週は大学時代の恩師の最終講義があったり、昨日は大きな買い物をしたりと、仕事とは関係ないことで、けっこう忙しく、それなりに楽しく過ごしている。


恩師の最終講義は、いやあ、大変感慨深かった。なぜかというと、私が大学生だった二十五年前と、何にも変わっていなかったからだ。先生はご自身の学生時代のことなども織り交ぜつつ、イギリスロマン派詩人たちのことを、うっとりと語った。とりあげた詩は、どれも古典中の古典。二十五年前と、ほんとに変わってない。ただ目の前のこの人が、この詩に、この詩人に、強くひかれているということだけは、ビンビンと伝わってくるのだ。あとで同世代の大学の先生に聞いたら、やはりいまどきは、こういう授業をする先生はほとんどいないらしい。大学の英文科といえども、うっとりと文学なんか語っていたら、学生さんたちの評価が下がってしまうのだろう。でも、恩師の最終講義を聞きながら、ああ、私はこの先生のゼミを取るべくしてとったんだなあ、と思った。あるいは、この先生に習ったから、いまの私があるのか? よくわからないけれど、わたしはよくも悪くも、昭和の教育を受けたんだな〜という思いをつよくした。


年末に実家に帰った時に、母から、あなたはわたしが心の奥底でやりたいなあと思いながら封印してきたことを、どんどんやっていてうらやましい、というようなことを言われた。意外だった。たしかに、大学の国文科を出て、腰掛けだけど出版社で働いていた母からすると、忙しい、忙しいと文句を言いながらも編集者として働いているわたしが、うらやましく感じることもあるのかもしれない。企業戦士の父を妻として支え、三人の子どもを育て上げたことに誇りをもっている一方で、時代が違えば自分もまた、バリバリ働いてみたかった、と思うのかもしれない。たしかにわたしは自分のやりたくないことはやらないし、結局のところ自分の生きたいように生きていて、客観的にみればぐちゃぐちゃな経歴だけど、内面的にはかなりすっきりと、自分の意思、という筋がとおっている。それは昭和の女にはなかなかゆるされなかった生き方で、いや、平成のいまだってゆるされないかもしれないけど、こと女性の生き方についていえば、ずいぶん選択肢が増えて世間様の目もゆるやかになっているような気がする。


何が書きたいのかよくわからなくなってきた。とにかくこの年末年始に両親といろいろ話しているうちに、我が家の問題児だったわたしが、まあなんとか定職につき、大変よい環境に定住しているということで、近い将来、両親が同じマンションのどこかに引っ越してくる、という素敵な案が急浮上しているのだった。どうなるかわからないけれど、それが実現すれば私も少しは親孝行できるような気がする。両親が、とくに母がしたいようにすればいいのだ。これまで家族のために、いろんなことを我慢してきたんだから。


で、平成の働く女の大きな買い物とは?
じゃーん! アイパッド2! でございますぅ。
昨年の正月にスマートフォンを衝動買いしたのに続き、お年玉気分の衝動買い、というわけだけど、いやあ、これがもう、楽しくて。ここのところブログの更新が滞っていたのも、深夜に帰宅してからネットでいろいろ下調べしていたせいで、ドコモのタブレットとぎりぎりまで迷ってたんだけど、結局きのう、ヨドバシで両方の実機触ってたら、やっぱりアップルのほうがかっこいいよなあ、という気分が盛り上がり。仕事で使うことを考えたら、WordやExcelが使いいいほうがいいんだろうなあ、と思いつつ、ええい、どうせこれはストレス解消の衝動買いなんだから、好き嫌いで決めてしまえ、と思って、ipad2wifiモデル、ホワイトを購入しました。


というわけで、今日のブログは練習もかねて、この新しいおもちゃで書いている。そのせいなのか、久しぶりの書き込みのせいなのか、いつも以上に文章が乱れているけど、まあ、今日はそういうわけで、自分をゆるしちゃうことにする。早速、kindleだのhuluだのといったアプリをいれて、おー、こんなこともできる、あんなこともできそう、ときゃーきゃー言っている。同居人は今のところ冷ややかだけど、もともとかなり年季の入ったMacファンなので、そのうち自分も買おうかな、とか言い出すかもしれない。


いちばん衝撃を受けたのは、i文庫HDというアプリで青空文庫その他の小説を開いたときだった。わたしは紙の本をこよなく愛している。紙の本の出版社につとめている。でも、きれいな画面にうつしだされた羅生門富嶽百景を見て、ヒュンヒュンとページを繰って行く快適さを体験して、ほお、たしかにこりゃあいいわな、と思ってしまったのだった。ああ、それは少し前に、今やただの板と化した初代キンドルを買ったときに思ったことと同じだ。単純に、末端のユーザーとして考えたら、教科書だって指導書だって、このヒュンヒュンになってたらすごくありがたいんじゃないか、営業も編集会議もこのヒュンヒュンひとつ持っていくだけ、ってなったら、ずいぶん快適だろうなあ、なんて、思ってしまったのだった。


とはいうものの、明日ももちろん、大量の紙のゲラと向き合い、コピーをとり、切手を貼った返信用封筒を同封して大量の手紙を発送する、という作業が待っている。自分本位の平成のワーキングウーマンとしては、自分がおもしろいと思うかどうかを判断基準にして、時代の変化や道具の進化と付き合っていくようにしようか、ね。