「なぜ」の質問とともに読んだり聞いたりすること

今日は3週間ぶりの早朝テニス。
沖縄での暴飲暴食もたたり、体が重いのなんのって。
ちょっと走っただけで息はあがるし、何度も転びそうになってコーチに笑われた。
今日のレッスンのポイントは、ラケットをひきつけて構え→素早くターン→一拍おいて、ボレー。
これが、軟式の正面ボレーがしみついた体には、ものすごく難しい。
コーチが、「みなさんは大人なので、なぜそうするといいのか、を説明します」
と言うのを聞いて、ふと、ああ、わたしは人の話を聞くとき、
「なぜ」という疑問とともに聞く、ということは、まったくないな、と思い当たった。


部活一色だった高校時代、「なぜこうするのか」などと考えたことがない。
「声を出せ」と言われれば、夢中になって声を出した。だれよりも大きな声を出した。
先日、高校時代の恩師(ラケットを持った赤鬼、だ)に会ったとき、
「藤沢本町の駅(学校から徒歩10分くらいの距離だ)に降りると、
いまでも○○(わたしの名字)のことを思い出すんだ。
あの頃よく、風向きの関係なんかで、藤沢本町の駅まで、
○○の「ファイトファイト−」という声が聞こえてきたんだよ」と言われた。
そんなことないでしょ、などと言い返せる関係ではないので、
「はっ」とかしこまって聞きながら、なんだか泣きそうになった。
あの頃、「なぜ声を出すのか」なんて、まったく考えもしなかった。
ただとにかく、先生の言うとおりにがんばれば、強くなれると信じていた。
チームメイトの中には、「なんで?」と思っていた賢い子もいたにちがいない。
でもわたしは、ほんとうにバカみたいに、先生に盲従していた。
母に言わせると、あの頃わたしは、毎日毎日「先生」の話をしていたという。
強烈な片思いだったとも言える。
「いまでも思い出す」っていうのは、この片思いが、ちょっとだけ報われたみたいな感じもしないではない。
でもまあ、本当のことを言えば、このくらいのことで報われた、なんて言えるはずはないのだ。
3年でインハイに行けなかったし、コーチ時代も結果を出せなかったわたしは、
どうしたら先生に「よくやった」って言ってもらえるのか、まだわからないでいる。


スポーツに限らず、本を読むときも、おしゃべりをするときも、
「なぜ」と考えながら対象に向かうということは、ほとんどない。
試験などで、何らかの批評を加えなければいけない、ということが前提となっているとき以外は、
「なぜ」ではなく、「そうだよな−」と共感しよう、共感したい、という気持ちが強い。
たとえば、だれかが「ぼくはオースティンの小説が好きだ」と言ったとする。
「なぜオースティンが好きなのですか」とは思わず、「オースティンのどの小説がいちばん好きか」
「その小説のどの場面がよかったか」とたずねたくなる。
「なぜ好きなのですか」という質問には、「わたしはくだらないと思うけど、そんなものをなぜ?」というニュアンスがあるような気がするし、
聞かれたほうも、「なぜって、好きなものは好きなんだよね」ってなっちゃって、会話はそれで終わってしまうんじゃないかな。
「どの小説が」「どの場面が」と聞かれると、多くの場合、このオースティン好きは、
「いやあ、どれって言われても困るくらいみんな好きなんだけど、あえて言えばやっぱり「自負と偏見」かな。
あれはさ、みんなダーシーに注目するけど、ぼくはなんといっても、……」という具合に、
ものすごく多弁になる。「自負と偏見」を未読でも既読でも、わたしはこういう話を聞くのが大好きだし、
既読だったらちょっと自分の意見も言ってみたりして、楽しいなーと思う。


たとえば、「一人で自転車旅行するのが趣味だ」と言った人がいて、
その人に、「なぜ一人で?」「なぜ自転車?」と質問しようという気持ちには、なかなかならない。
その人が「趣味だ」と言っているのだから、それでいいじゃない、と思ってしまう。
なぜ一人か、なんてことを聞いて抽象的な返事がかえってくるより、
これまでの自転車旅行のエピソードをたくさん話してもらったほうが、ずっと楽しい。


たとえば評論を読むときも、多くの場合、「説得されたい」と思って読む。
「なぜ」という疑問など持たず、「なるほど」と思いながら読んでいる。
「なるほど」と思わないときは、「?」となり、「この人の言ってること、よくわかんない」となる。
「なぜこういうふうに考えるのか」ではなく、「ここのところもう少し詳しく説明してほしい」と思う。


……と、このように「なぜ」にこだわっているのは、
先日、「『なぜ』という疑問をもつことが、思考の第一歩です」というような文章を目にしたからだ。
いやあ、だとすると、わたしは「思考」という能力が著しく欠如してるんだなー、
うーん、編集者としては致命的かもしれない。
しかし、一般的には「なぜ」とつきつめていくより、「ほー」「へー」「なるほど」と説得されていくほうが、
人間関係もうまくいくような気がするけど。


ちなみに、わたしのこのような姿勢が、「説教おやじ」を呼び込む傾向にあるのは間違いない。
ただわたしが人の話を「説得されたい」モードで聞くのは、あくまで自分と関係がない場合に限る。
「一人で自転車旅行が趣味」の人の話も、その人の自転車話はどこまでも楽しんで聞けるけれど、
「あなたもどうですか?」くらいならまだよいが、「絶対、自転車はいいですよ」とか、
「一人自転車旅行をするべきですよ」などと言われたら、とたんにいやになる。
相当変な趣味でも、相当奇妙な人生でも、どーんと受け入れる度量はあるが、
それをわたしに押しつける権利は、だれにもないのだ。