詩を語る男たちはまぶしい

今日は編集会議。中心の議題は「詩」である。出席する先生は4名、これが、揃いも揃って私的にはものすごくいい男ばかり。(あくまで、私的に、である。)行きの電車の中で、昨日Yさんからプレゼントしてもらった英語のプリントを読む。というか、読もうと努力してみた。Yさんは、「これくらい読みなさい」とおっしゃったが、わたしの現在の英語力では到底太刀打ちできない。英語力だけじゃなくて、背景知識も皆無だし。ただ、20年以上前に書いた卒業論文キーツのオードについて、だったので、The Ode on a Grecean Urn に触れている部分だけは、ちょっびっとだけ理解できた。


会議のほうは、残念ながら満点、というわけにはいかなかった。ずいぶん時間をかけて話し合ったわりには、無難なところに落ち着いた感じ。前にも書いたような気がするが、40代50代の知的な男たちが、詩や文学について語っている姿というのは、ほんとに素敵だ。しびれる。うっとりする。わたしの中の何かが動いて、このまま突っ走ってほしい、と思う。でも、だめなのだ。結局、いまつくっている本の性格上、まあ、そうですね、はい、そうでしょうとも、という感じのところに落ち着かざるを得ない、ということになる。4人とも、自分の本当の声でしゃべってないよなあ、こっちはうっとりとしびれてるのに、ずいぶん冷静に、計算高く考えてるよなあ、ぶちぶち……などと思ったあとで、いやいや、これは「仕事」なのだから、冷静に、計算高くやらなくてどうする、と自分の立場を思い出して反省。


昨日のYさんとの会話を思い出した。研究とか発表とかには、愛情とか情熱は時にはじゃまになることもあるそうだ。教育とか商売とかも、もちろんそうなのだろう。うっとりしびれている場合じゃない、ってことだ。でも、わたしはうっとりしびれたり、ぐちゃぐちゃどろどろになったりしなかったら、詩や文学と関わる意味なんてないような気がするのだ。理知的なYさんとわたしはこのあたりほんとに正反対なので、Yさんが研究者の道を歩み、わたしは感情のままにへらへら生きているというのは、なるべくしてなった結果だ、ということなのだろう。


会議後の飲み会はリラックスムード。何しろいい男に囲まれての紅1点、こちらのテンションは上がって当然だ。戦後を代表する女性詩人4名の名をあげて、「この中のだれかとつきあうとしたら誰がいいか」などという質問が飛びだした。結果は、「エロスを感じる」「さわったらやわらかそう」という理由でSKさんが一番人気だった。帰りの電車の中で、先生の一人から、「高村光太郎谷川俊太郎萩原朔太郎の中で、つきあうとしたら誰?」と聞かれた。わたしは「萩原朔太郎」と即答した。「金子光晴をプラスしたら?」という問いには、「金子光晴」と即答。うーん、この会話、K理部のS常務あたりが聞いたら、「編集委員の先生方といったい何をやってるんだ!」と怒り出しそうだ。だいじょうぶ、まじめにやってますから、安心してくださいね〜!


わたしが「吉増剛造の詩がカッコイイと思う」と主張したら、先生方が吉増のパフォーマンスや話し方を真似してくれたのだが、これがちょっと悪意がある物まねで、吉増に対して抱いていたイメージがガラガラと崩れた。でも、帰宅してからネットで検索して写真を見たのだけれど、わたしの元のイメージどおり、精悍な感じでカッコイイ男だった。(たまたまその写真がそうだったのかもしれないけど。)詩を読んだり書いたりする男って、95%くらいは女たらしだと思う。そしてそのうちの70%くらいは女たらしでもゆるしたくなるような、その人の話をずーっと聞いていたくなるような、いい男のような気がする。


帰路、久我山から自転車を飛ばしてる途中、家まであとちょっと、というところでどしゃぶりの雨。ずぶ濡れになってしまった。少し頭を冷やしなさい、という神のお告げだろうか。