大洗サンビーチでトルストイを読む

先週、突然思い立って大洗へ一泊旅行。会社の事情で8月は休みだらけになっているわたしに比べ、休みベタで働きづめの同居人があまりに気の毒なので、直前でも予約可の海沿いの宿をさがしたのである。


期待どおり、放射能の心配なんてぜーんぜんないのに、大洗の海沿いの人気ホテルに空室を発見。特急もぎりぎりで指定席を予約できて、バタバタと出かけることとなった。で、重要なのが、携帯本の選択。同居人の書棚から選び出したのが、分厚い中公文庫のトルストイ『復活』。

復活 (中公文庫 C 3)

復活 (中公文庫 C 3)

あらあ、書影が出ないのね−。


特急の中で読み始め、夢中になって読み続け、ビーチでもちょこっとぱちゃぱちゃやったらもう海水浴は満足で、パラソルの下でずーっと読み続けた。さすがに大洗では読み終えなかったけど、帰宅後も仕事の合間に少しずつ読んで、昨日読了。いやあ、さすがロシア文学。名作でございました。翻訳も格調高いながらも読みやすくて、ほかのものと読み比べたわけではないけれど、これは名訳だと思う。


ただ、わたしがおもしろかったのは前半。登場人物がみんな浅はかでダメダメな時期のほうが、小説としては圧倒的におもしろい。第三編に入って、ネフリュードフがカチューシャについてシベリヤに向かう場面は、内省的な思索が多すぎて、ちょっとげんなり。大洗から帰ってきちゃったこともあって、読書スピードもがくっと落ちた。前半を夢中で読んでいるときに、なるほどと思ったのは、たとえばこういうくだり。
   

  人間というのは、自己の行為が重要で立派なものと思っていられるような、人間生活全体に対する見方を、必ず勝手に作り上げるものなのだ。(中略)
  自分の生活や、社会における自分の地位などに対する、こうした見方を、カチューシャも作りあげていた。彼女は懲役を言い渡された売春婦だった。が、それにもかかわらず、彼女は自己を是認し、人々に対して自分の立場を誇ることさえできるような、人生観をちゃんと作りあげていた。
  その人生観とは、要するに、老人も若者も、中学生も将軍も、教養のある者も無学者も、すべて一人の例外もなく、男という男の主要な幸福が、魅力的な女性との性行為にあるのだ、という考えだった。ほかの問題に忙しいようなふりをしてはいるが、みんな実際にはただそのことだけを望んでいるのだ。ところが自分は魅力的な女性だし、彼らのその欲望を満たしてやることも、満たしてやらぬこともできる、だから自分は重要な、必要な人間なのだ、という考えだった。過去および現在の彼女の全生活が、この見方の正しさの裏付けとなっていた。(260−262ページ)


なんていうか、カチューシャえらい、カチューシャがんばれ、と思ってしまった。この小説の正しい読み方じゃないかもしれないけど、わたしはこんなふうに考えてるカチューシャのことが、第三編で「改心」したみたいになるカチューシャよりも好きだな。前半であぶりだされているような人間の真実の姿っていうか、本能的な部分ていうのは、宗教とか思想とか政治とかの観点で見直そうとすると、急にステレオタイプになってしまうような気がする。……なんて、天下のトルストイさまにもの申すつもりは毛頭ないので、とにかく、大変おもしろかったし、充実した読書体験だった、ということで、感想はおしまい。


大洗は例年よりだいぶすいているそうで、案内された部屋は最上階の角部屋、窓の外には海しか見えないという絶景だった。お料理もおいしく、大満足。翌日は那珂湊へ移動し、海鮮市場で岩ガキ、生ウニを堪能。大洗も那珂湊も、先の震災ではひどい津波の被害があったそうだ。でも、地元の人たちががんばって、今はすっかり片付いてきれいになっている。水戸から那珂湊までバスも出ているので、交通の便は悪くない。冬にまた行きたいなー。アンコウ鍋がおいしいらしい。


今夜から同居人が山形に出張に行ってしまうので、珍しくおうちでひとり。でも、あそび人のわたしがじいっとしているはずもなく、ブログ仲間のYさんとシモキタで飲む約束。らんらん。(あ、Yさんは女性です、念のため。)