のだめカンタービレとエースをねらえ!ほか

わたしはほとんど漫画を読まない。
別に毛嫌いしているというわけではなく、
さいころからなんとなく漫画を読む習慣がなかっただけだ。
だから、ティーンエイジャーの頃は、友達がこぞって読んでいるような漫画だけは、一応、読んでいる。
そして、若い頃特有のものすごい集中力で読み、しばしその世界に耽溺したものだ。
その数少ない耽溺した漫画のひとつが、「エースをねらえ!」。


中学校高校の6年間、今思うと自分でもちょっと信じられないくらい部活少女だったわたしは、
1年でラケットを握らない日はない(あったとしても1,2日だと思う)というテニス漬けの生活を送っていた。
そんな部活の仲間うちで「エースをねらえ!」がはやらないはずがなく、
わたしもご多分に漏れず夢中になって読んだ。当時は大部分のセリフが空で言えるほどだった。


映画「のだめカンタービレ 最終楽章 後編」を観ながら思ったのは、
ああ、これ、エースをねらえ! といっしょだ、ということ。
のだめカンタービレ」をはじめてテレビで見たときは、「なんだかバタバタしたドラマだな」という印象だったんだけど、
今やわざわざ映画を映画館まで観に行くほどの「のだめファン」。
なんといっても音楽がすばらしいし、のだめはかわいいし、千秋先輩はかっこいい。
脚本も映画としてのポップな仕掛けもいいあんばいで、よくできた映画だと思った。


原作は漫画だそうなので、漫画のほうもぜひ読んでみたいのだけれど、
「ぱっと見はごく普通で、やる気もさほどない、のんびりした女の子が、
周囲の男たちにその才能を見いだされ、見守られながら成長していく」
ってストーリーは、まさに「エースをねらえ!」とまったく一緒。
エースをねらえ!」の藤堂さんと宗像コーチ(と千葉ちゃん)、「のだめ」の千秋先輩のセリフに、
日本中の普通の少女たちが励まされている、というわけだ。


とここまで書いたところで、はっと気づいた。
19世紀ヨーロッパを舞台にした小説『ある婦人の肖像』もまた、似たような構図を含んでいるではないか。
イザベルは「普通」ではなく才気煥発の美人という設定ではあるけれど、
自分の力で生きようとする彼女の成長を、深い愛情をこめたまなざして見守り続ける従兄弟ラルフという存在があって、
日本の現代に限らず、この構図って古今東西、人気のある設定なのね。


ちなみにわたしは十数年前、神奈川の小さな町の中学校の教壇に立ったとき、
中1の最初の国語の授業で、「エースをねらえ!」に出てくる「庭球する心」っていう詩のようなものを使って、
授業開きをしたのだ。
「この一球は絶対無二の一球なり
 されば心身あげて一打すべし
 (後略)」
っていうやつ。日本語のリズムのことや、中学校から学ぶことになる古典のこと、四字熟語の辞書引きの話まで、
この「庭球する心」を使って話をした。
日本広しといえども、国語の授業で「庭球する心」を斉読した中学生って、そうそういないだろう。
当時のわたしは、教科書がどこの会社のものかなんて、まったく興味がなかった。
今も本質的にはあまり変わっていないような気がする。


夜、タイトルにひかれて買った福田和也アイポッドの後で、叙情詩を作ることは野蛮である』を、とばし読みで読了。

アイポッドの後で、叙情詩を作ることは野蛮である。

アイポッドの後で、叙情詩を作ることは野蛮である。

タイトルと同じ章題のついた第一章がいちばんおもしろかった。全体としては固有名詞が多く情報量が多すぎて、
わたしにはちょっとついていけない感じ。
でも、このびしっと決めた断定的な文体は、好きな人は好きだろうなあ、と思った。
アウシュビッツは、説得力を失った。」(6ページ)とか、
「われわれは荷風を生きている。生きざるをえない。」(224ページ)とか。
先を読んでみようと思わせる効果はある。
「和歌子が、遅れた。」(195ページ)なんてことになると、ちょっとやり過ぎの感はあるけど。


今日テレビで「連合」のメーデーのニュースをやってたけど、
わたしの所属するクミアイの上部団体のメーデー大会は、5月1日だ。
今年はデモ行進のあと、英文学系の学会をのぞいてみようと思っている。
英文学系といってもたぶん発表は日本語だろうし、
時々そういうアカデミックな場所に行ってみることも必要だと思うので。
(デモ行進から学会へという行動をとる場合、服装をどうするかという現実的な問題はあるが、
 まあ、年とった院生みたいなふりをして会場にもぐりこめばいいか。)


そういえば今日、西荻窪音羽館に行ったら、晶文社フェアみたいなのをやっていた。
その棚に、7年前に出た、わたしの最後の訳書があった。
そっと値段を見たら、500円だった。しばし感慨にひたる。
あのまま翻訳を続けていたら、いまごろどうなっていたのかな、などと。
でもいまは、長田弘さんがつけてくれたというその本のタイトルのように、
選んだ道を走っていくしかないわけで、
気を取り直して奥の日本文学の棚に進み、
「ちょうどいい長さの、性も暴力もない短編小説やーい」と、
熱烈なラブコールを送ったのだった。(案の定、成果はなかった。)