「張りがありますなあ」

今週末はいろいろと落ち込むようなことがあった。
出張先で電車事故にまきこまれるとか、同居人が自転車で怪我をしたりとか、
こちらには非のない不運もあったし、
自分の浅慮のために大切な先生を怒らせてしまうという大失敗もあった。
そういえば、木曜日に保険の外交さんが持ってきてくれた占いに、
しばらくは運気が悪いので、なるべくじっとしていたほうがよい、と書いてあったっけ。
そういわれてもサラリーマンとして働いている以上、
出張や会議をやめるわけにはいかないのだから、仕方がない。
ここのところちょっと、仕事が楽しいと浮かれていたから、
少し心を引き締めよ、と神様がお考えになったのかもしれない。


出張先の駅の待合室で、こんなことがあった。
特急列車が来るまで、あと20分以上あったから、駅のホームの自販機でコーンスープを買い、待合室に入った。
20席くらいある椅子はほぼ満席で、いちばん奥にぽつんと一つ、あいていた席をみつけ、そこへ座った。
となりには3歳くらいの男の子とお父さん、それにおばあちゃんの3人連れが座っていた。
この子が、めちゃくちゃかわいい。
電車はいつくるのかとか、待合室の中のものをあれこれ指差してその名前をたずねたりとか、
いかにも地方ですくすく育ったやんちゃな子って感じで、
それにてきとーに答えているお父さんも、ちょっとつかれた様子であまり「りっぱ」な感じじゃなくて、
わたしは疲れているとき近くにうるさい子どもがいたりするとかなりいらっとするんだけど、
このときはなんだかこの子を見ているだけで、心が洗われるような感じがしていた。
わたしの向かいに座っていた70歳くらいのおばあさんも、同じように感じていたらしく、
その男の子に向かって、「どこ行かはるの?」とたずねた。
おばあちゃんとお父さんに、「ほら、どこ行かはるの、て」と促されて、その子は、
なんとかシーパラダイスというところに行って、鳥羽水族館に行って、なんとかでおさかなを見て、なんとかを食べる、というようなことを、
そのおばあさんに一生懸命話した。
おばあさんはいちいち、「そうなん」と驚いた顔をしたり、「いいなあ」とあいづちをうったりして、
そのやりとりがあんまりほほえましいので、そのとき待合室にいた人はわたしを含めほぼ全員、
いっしょになって、聞き入ってしまったのだった。
ほんの5分ほどの短い時間だったけど、待合室全体がその男の子を中心にひとつになった、という感じだった。
鳥羽方面の特急が来て、その男の子たちが待合室を出ていくとき、
わたしの向かいのおばあさんは、男の子のおばあちゃんに向かって、
「張りがありますなあ、こんなかわいらしお子がいらっしゃると……」と言った。


そうか、と思った。
子どもたちに未来を託す、とか、未来を担う子どもたち、とか言うことばを聞くたび、
けっ、と思ってしまう偏屈なわたしだが、
70歳くらいのおばあさん同士の会話として、「張りがありますな」というのは、うーん、なんていうか、わかる気がしたのだ。
以前、祖母が入所している老人ホームに、赤ちゃんを連れてきた人がいて、
赤ちゃんがいるだけで、ホームがにわかに活気づいて、おじいさん、おばあさんたちがうれしそうにしていたのを思い出す。
子どもや赤ちゃん、若い人たちが近くにいるということは、年配者にとってはそれだけで「張り」になるのだ。
そういえばわたしもその前日、出張先で、地方の高校生たちを大勢見て、ことばを交わしたのだけれど、
若いっていうのはそれだけで、いいことだなあと素直に思った。
子どもたちの未来のために!とか言われちゃうと、なんにもやる気がなくなるけど、
なるほど、関西弁で「張りがありますなあ」と言われると、そうだよなあ、と思う。
いまの仕事はいろいろひっかかることもあって、時々、辟易したり、うぇっとなったりするんだけど、
そういうときは肩の力をぬいて、「張りがありますなあ」ってくらいの肯定さ加減(←変なことば、造語です)で、
つきあってもいいのかもしれないな、と思ったのだった。


ところで、このブログはもともと、「読書ブログ」のつもりだったのに、
ここのところ情けないくらい、読了本についての記述がない!!
こんなことではいかんなあ……ということで、
いったん「キンドル」をお休みし、大江健三郎の『水死』を読書中。
これまでのところ、大変おもしろい。先を読むのが楽しみだ。