1日だけ里帰り

今日は午後から鎌倉の実家へ里帰り。
大船からいつものバスに乗る前に、タクシーで「あいの里」という老人ホームに向かった。
99歳になる母方の祖母が、そのホームに入所しているのだ。


祖母は思っていたよりずっと元気で、しっかりしていて、
以前から身だしなみのいいおしゃれな人だったけれど、
わたしを孫と認識できないくらい子どもにかえりつつある今でも、
「年のわりには若いでしょう」と胸をはり、
「京都のお菓子はさすがにおいしいわね。もうひとついただこうかしら」と上品に催促する姿は、
なかなかのものだった。
わたしとの話はまるでかみあわなくて、まったく「会話」にはならないのだけれど、
わたしは1時間近くいっしょにいて、全然苦にならなかったし、楽しかった。


わたしは母の実家であるこの祖父母の家で、半年ほど暮らしたことがある。
わたしが小学校一年生のとき、父が大病をして長期入院し、母は病院へ泊りこみ、
兄とわたしは母方の祖父母の家へ、二歳だった妹は父方の親戚の家へあずけられたのだ。
子どもだったわたしはコトの重大さがまるでわかっていなかったのだけれど、
祖母はわたしたち兄妹の身の上をかわいそうに思ったのだろう、とてもかわいがってくれた。
わたしはそのときの話を一生懸命したのだけれど、祖母には全然わからなかったみたいだ。
それでもいいや、と思って、わたしは繰り返し、「おばあちゃん、ありがとうね」と言った。
祖母はにこにこ笑いながら、「おもしろいねえ、どこか似てるんだねえ」と意味不明のことばを繰り返していた。
それでも時々、まともなことも言う。
祖母に言わせると、子どもたちの中で、長女であるうちの母は「とても美人」で、次女の叔母は「勉強ができた」のだそうだ。
わたしの母の写真を指差して、「この子はねえ、今も美人よ」というので、
「わたしは、この人の娘よ、おばあちゃんも美人、ママも美人、わたしも美人、ねっ?」とどさくさにまぎれて認めさせようとしたのだけれど、
祖母はまた、「おもしろいねえ、どこか似てるんだねえ」とうれしそうに笑った。


実家に帰って祖母の話と着物の話でもりあがる。
母が着付の練習用に古い着物をくれるというので、古い木箱をひっぱりだした。
お世辞にも保存状態がよいとはいえない着物を順番にみていって、
「お、これ、いいな」と思った着物は、
「あ、これはダメよ、ママがまだ着るかもしれないから」と却下され、
結局、ちょっと外にはきていけないような、よれよれの古い着物と、まあまあきれいな帯をもらうことにした。


帰りの電車の中では、『アブサロム、アブサロム!』のつづき。
うーん、話はぐんぐんと盛り上がる。
あんまりおもしろいので、駅のベンチに座り込んで読み続けたい気持ちをぐっとこらえ、
井の頭線に乗り込む。おみやげのメロンの入った重い紙袋を右手に下げ、
左手で分厚い単行本を持ち、立ち読み。あやうく、久我山で降りそこないそうになる。


帰宅すると、注文していた「國文學8月臨時増刊号 特集:<子ども>の文学100選」がポストに。

これはかなりおもしろそうだ。今のわたしは、ここに並んでいる国内外の児童文学作品を、ほぼすべて知っている。
なにしろこの二年間、「児童文学にかかわるヒト」として会社員生活を送ってきたのだから。
さらに、巻頭の対談者は、敬愛する和田忠彦さんと野崎歓さん。
さらにさらに、「75選」を書いている中に、わたしがひそかに憧れている、若きアメリカ文学者がいるのだ!!


というわけで、内容を読むのはこれから。
和田さんが対談の中で、
「野崎さんに限らず外国文学で優れた仕事をしている人たちは、ご本人もそうだけれど、かれらが選ぶ作品も、
 論じる作品も、よく見ると、大人気なさを湛えている。」(7ページ)
と言っていて、そうだ、そうだ、とうなずいてしまった。
そしてしつこいようだが付け加えるなら、わたしはこういう「優れた仕事をしている人」の「大人気なさ」に、
めちゃくちゃ弱いのだった。