フィクションとノンフィクション

今週末、ゆったりした日程で、箱根の温泉に行ってきた。
かばんにはフィクション1冊とノンフィクション2冊。
まずは先週半ばから読み始めたノンフィクションを読了。

反日、暴動、バブル 新聞・テレビが報じない中国 (光文社新書)

反日、暴動、バブル 新聞・テレビが報じない中国 (光文社新書)

かなりしっかりした取材に基づいた、内容の濃いノンフィクション。
以前にこの著者の『こころ熱く無骨でうざったい中国』を読み、
その対象への没入の仕方、赤裸々なまでに自分をさらけだした体当たり取材に恐れ入ったのだけれど、
今回の光文社新書は、『こころ熱く……』の熱っぽさを根底に残しながらも、
かなり冷静に、ジャーナリスティックに「中国」をとらえた著作だった。
有名・無名さまざまな事物や人物の固有名詞が出てきて、実例をあげ、生の声を聞かせて、文章を展開する。
スポーツや食事など身近なことから、政治や歴史の深いところまで、
あまり構えることなく一気に読ませてしまうのは、「ぼく」を一人称とする著者の語りかけるような文体のおかげだろうか。
光文社新書は、出版点数が多いせいかもしれないが、結構「ピンキリ」という印象。
その中で、この力の入ったノンフィクションは、間違いなく「ピン」に属する。


中国本を堪能したあとは、さんざん迷った末にかばんにいれた、長編小説『無理』を読み始める。
現代日本を舞台にしたリアリズム小説だから、旅先で気軽に読むのに適しているのは間違いないのだけれど、
何しろものすごく分厚い単行本なのだ。でも、予想通り、持っていくのは大変だったけど、読むのはラクラク
というわけで、土曜日の深夜、読了。

無理

無理

うーん。まあまあ、かな。
5人の登場人物は、それぞれにリアリティがあって、ところどころ、うまい!と思わせる部分もあるのだけれど、
全体に、暗い、というか、救いがない感じがした。
先を読みたい、と思わせる力はすごくて、こういうの、「ページターナー」って言うんだろうなあ。
でも、「人間て弱いなあ」の先に、「でも、かわいいところがあるね」がこないと、
登場人物や舞台設定にリアリティがあればあるほど、読後感がつら〜い感じになってしまう。
もそもそとライトを消して、布団にもぐりこんだあとも、しばらくどよ〜んとした気分をひきずってしまった。


翌日、かばんの中の最後の1冊、『異形にされた人たち』を読み始める。

異形にされた人たち (河出文庫)

異形にされた人たち (河出文庫)

最初の30ページくらいを読んだところで、前にあげた中国本にどことなく似ていることに気づいた。
取材対象との距離の取り方や、固有名詞やデータの扱い方、文体など、気にしだしたら止まらない。
取材対象のことを取材者として愛情をこめたまなざしで見つめながらも、つとめてジャーナリスティックであろうとする姿勢、
固有名詞やデータ、歴史的事実などの正確さに徹底的にこだわるところ、
そして、それでもなお、見えかくれする「著者」自身のすがた。
たとえば、こんなふう。


   サンカへの関心がなかったわけではない。ずっと気にかかっていたようにも思う。
   ただ、この強くもなければ、また消えてしまうわけでもない関心の持続の始末の悪いところは、
   相手がはっきりしないところからきているのだ。そのことがわかっていた。
   おいしければ飲み込んだだろう。まずければ吐き出す。そのようにして、いずれにしろ、消費できる。
   ただ、うまいのかまずいのかがわからないものだと、その皿がいつまでも残っていたり、食べかけてのどに引っかかったりする。
   わたしにとって、サンカとはそういう存在だった。
   (51ページ)


事実を積み重ねるようにして書いているノンフィクションの途中に、突然、こんなふうに「わたし」が登場すると、
読者の側は一瞬、「えっ」となる。
でも、たとえば先ほどの中国本にしても、このノンフィクションにしても、
自分があまりよく知らない分野、知識が少ない分野のノンフィクションを読むときは、
この突然登場して「えっ」と思わせてくれる「ぼく」や「わたし」が、実は格好の促進剤になっているような気がする。
これがないと、固有名詞と歴史的事実の波にのまれて、なんだかよくわからなくなり、ついていけなくなり、
やーめた、となってしまいそうだ。


この週末、ノンフィクション、フィクション、ノンフィクション、という順番で3冊読了して発見したことひとつ。
それは、ノンフィクションはとばし読み可能だけど、フィクションは不可能、
ノンフィクションは、情報の取捨選択を読者であるわたしができる、というか、してしまうけれど、
フィクションは、そもそも情報を得るために読んでいるわけではないので、取捨選択などとてもできない、ということだ。
(発見ってほどでもない、当たり前のことか……)
そして実は、よくできたノンフィクションほど、とばし読みがしやすい、ということが言えるように思う。
もちろん著者は、すみからすみまで、なめるように読んでほしいのかもしれないけれど、
よくできたノンフィクションだからこそ、著者の筆にのせられて、自分の力では今まで越えられなかった知識の壁みたいなものを、
ひょい、と越えることができる。
これが、できが悪いノンフィクションだと、著者の力のいれどころがよくわからないから、中途半端な知識しかないわたしのような読者は、
知識の洪水の中で右往左往するしかなくなってしまうのだ。
一方、フィクションは、作者がどこにしかけをしているか、どこに力をいれているか、まったくわからない。
いや、わからないというより、決まった答えはない、と言ったほうがいいのだろう。
作者が意識的にしかけたり力をいれたりする場合もあるだろうし、
無意識にそうなっている場合もあるだろうし、
読者の側の事情で、作者や他の読者にとっては計り知れないところに反応する場合だってあるはずだ。
だから、少なくともわたしは、フィクションをとばし読みするということは、ほとんどない。
もしフィクションをとばし読みするとしたら、「あまりおもしろくないな」と思ったのに、何らかの理由でがまんして読んでいる場合だろう。
(もちろん、話がおもしろすぎて、先を読みたくて、どんどん読むスピードが速くなる、ということはある。
 でも、そういう場合も、ノンフィクションの「とばし読み」とはまったく違っていて、
 ただ、読むスピードが速くなっているだけで、途中を「とばし」てはいないのだ。)


小田急線の車中で『異形にされた人たち』を読み終え、
かなりへとへとだったくせに千歳烏山で「ちょっとだけ」本屋に寄り、「次に読む本」を買う。
うちのどこかに二種類の訳本があるはずのディケンズ『デイヴィッド・コパ―フィールド(一)』。
ディケンズは実は『クリスマス・カロル』くらいしか読んでいないので、
先日野崎さんが絶賛していたこの本を選択。
訳は中野好夫訳にしようかずいぶん迷ったのだけれど、思い切って新訳で読んでみることにした。
ノンフィクションも短編も悪くないのだけれど、
やっぱりわたしは、長編小説が好きなんだよなあ。