こどもたちは知っている?

行ってきました、野崎歓さんのトークショー
今回は野崎さんの新刊「こどもたちは知っている」についてのお話がほとんどで、
少しだけ、現在のフランス事情などについての話題も。

こどもたちは知っている―永遠の少年少女のための文学案内

こどもたちは知っている―永遠の少年少女のための文学案内


「永遠の少年少女のための文学案内」という副題のとおり、
この本は「児童文学」についての本ではなく、
大人が読む文学作品の中に出てくる「こども」に注目して、
もう一度作品を読み直そう、という試み。


   こどもの姿に目を凝らしてみるとわかってくる。
   おとなによる、おとなのための作品が、実はこどもによってどんなに元気を与えられ、
   方向性を授けられているのかが。
   そこに登場するこどもたちの姿は実に多様で、魅力的である。
   こどもが力を発揮してこその名作なのだ。
   ひょっとしたら、文学はこどものおかげで文学たりえているのかもしれないとさえ思わされる。
   これは、遅ればせながらそんなことを考えついた人間による、何ともナイーヴな文学再入門の書である。
   (2ページ)


いやあ、野崎さん、ほんとにナイーヴですね……
正直言って、こういう話、野崎さん以外の人が言ったら、「けっ」と思ってしまいそう。
でも、野崎さんが話すとなぜか、「けっ」とは思わず、「そうだな」と思ってしまう。
そしてそれは、野崎さんの顔が好きとか、そういうことでは決してなく、
先日の柴田さんのときと同様、「具体例」の力なのだ、と強く感じる。


今日のトークショーで野崎さんがあげた「具体例」は(もちろん、本にも出てくる)、
たとえば『レ・ミゼラブル』のコゼット。
そりゃあもう、そのとおり。
わたしだって初めて読んだときから、どっぷりお話の世界にひたって、
コゼットのために涙を流したものだ。
たとえば『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャと川岸の小学生たちの場面。
これはかつて小学校の国語教科書にも掲載されたことがある(はず……)名場面で、
文句なしに「こどもが力を発揮している」。
で、そういう場面について語る野崎さんは、なんていうか、ひたむきな感じで、
自分の感動をなんとか伝えようとして、いろいろなことばを重ねて、
でも、それでも十分に伝わってないと思うから、みんな、原作を読んでみて、と呼びかけられているような感じがするのだ。


と、こんな具合に野崎さんにいかれている「ファン」ではあるのだけれど、
やっぱり「けっ」と思ってしまうことはあって、それは、「自分がこどもを持ってみてはじめて云々………」というような話がでたとき。
金原ひとみさんも母親になったばかりだとかで、金原さんとの対談の内容を話してくれたんだけど、
うーん、親ばかがいやとかじゃなくて、やっぱり子どもがいないわたしにとっては、そんなことどうでもいいんだよなあ、という感じ。
「こども」に注目して文学を読み直す、ってこと自体は、自分に子どもがいてもいなくても、できるんじゃないのかなあ。
うーん、これ以上、「自分が親になったからこそ」みたいな話を続けられたら、野崎さんのことキライになりそう……と思ったぎりぎりのところで、
本日のトークショーは終了。


また例によってサインの列に並んだんだけど、
今日はなんと、整理番号NO3だったのに、NO1とNO2の人が不在で、
一番にサインをしてもらえることに。
心の準備がまったくできていなくて、おずおずと本を差し出し、
「まだ拝読していないので、これから読むのを楽しみにしてます」みたいなことをぼそぼそと言い、
これではいけない、印象にのこらない、と思い直して、サインをしている途中で、思い切って、
「あのう、出版社で、国語の教科書の編集をしてます」と言ってみた。けど、反応なし。
で、さらに勇気をふりしぼって、
「なので、先生にぜひ、何かお仕事がお願いできればと思ってます」と続けてみた。
野崎さんは笑って、「教科書とかそういう堅いのは、ねえ」とあっさり。
「ありがとうございました」と頭を下げて、すぐに会場のABC六本木店をあとにした。
直後に駅の化粧室で鏡を見たら、熱があるみたいに顔が紅潮している。
いやあ、恥ずかしいな−。アイドルにあこがれるファンみたいだ。
もう次からはサインの列に並ぶのはやめよう。
ひっそりと野崎さんの本を読み、ひっそりと講演を聞きに行く、「かくれファン」になろう。と、心に決めた。